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シュルレアリスムとは何か

お誕生日をバンドの皆様にお祝いしていただいた。

お誕生日は家族からも忘れ去られ(家庭に問題があるから・・)、お友達は少ないが(人格に問題があるから)・・・仲間の多さに感謝(問題を芸風にしているからか?)。

こんなに一時にプレゼントを沢山いただいたのははじめて(涙)生きながらえてよかった・・・。


正月にシュルレアリスムの研究家、巖谷國士の「シュルレアリスムとは何か」を読んだのでここに紹介する。

実はこれを読んだので、ブログの写真をトワイヤンに変更したといういきさつだ。本はシュルレアリスムにまつわる3章仕立てになっている。


1章 シュルレアリスムとは何か

まずはシュルレアリスムの領域について、今日本で横行しているシュールという言葉の定義はシュルレアリスムの意味とは異なっているという自身の違和感を、シュルレアリスム運動の開始点となったブルトンの「自動記述」を例にあげながら説明する。


書く事の実験としてなされた「自動記述」は、一定リズムで思い浮かんだ単語を書き連ね、そのスピードをあげていくとどのような成果が得られるのかということの研究である。「自動記述」を続けると、まずは書かれた文字から「私」という主語が喪失され、ついで動詞が消滅し、名詞のみのオブジェ世界へと変貌する。主観が排除されたオブジェ世界は非常に狂気に近い世界に近づいていく。


さてそうやって文学ではじまったシュルレアリスムは美術の方へ領域を広げていくのでだが、自動記述から自動デッサンはエルンストにおけるコラージュ、フロッタージュ、かのデュシャンにおけるレディメイド、デペイズマンへと領域の羽を広げるていく。


しかし、シュルレアリスム(超現実)はどこまで狂気の世界に近づくとしても、異世界のことではなく、連続性のもと捉える方が正しい。重要なのは現実と超現実は切り離されたものではなく、現実は超現実のはじまりでありることの認識だ。それはそもそも運動の始まりである「自動記述」に焦点をあてると分かるというシュルレアリスムの領域の話を書いている。


2章 メルヘンとは何か

 2章は「メルヘンとは何か」についても「メルヘン」という言葉が柔らかい幻夢世界のうちで捉えられていることに違和感を感じている。このメルヘンもシュルレアリスムと同じく、現実の延長線上の物語なのだ。


17世紀までは「こども」という概念はなく、「小さい大人」がいたにすぎないので、そも児童文学というものも存在しなかったので、よって日本語になおすと「おとぎばなし」は、そも子供のためのものではなかった。そもそも「おとぎばなし」とはどういうものなんだろう。



御伽噺の特徴を見てみよう

・どんな場所、時代にも適応するような普遍的な構造である

例えば登場人物に名前がなく、男とか姫とか継母とかの名詞におきかえられる、時代は「むかしむかし、あるところに~」といいった風に適当である。

・「森」と「旅」がキーワードで出てくる

人間は狩猟を捨て森を捨て、農耕社会へとうつるわけであるが、森は新しい生命を得るための「通過儀礼」として描かれ、その過程が「旅」であると連想出来る・

・「妖精」が出る

妖精は運命を握るものとして登場し、かつ物語りは近代小説のように「運命」に抗したりせずに、妖精の恩恵をそのまま受け入れる。


おとぎばなしといえば「ファンタスティック」なものという形容がされるが、ファンタスティックといのはどちらかということ異世界が突然眼前に開けているというもの。おとぎばなしの世界は妖精にまつわる単語である「フェーリック」で表現されるのが相応しい。

それでは「ファンタスティック」と「フェーリック」との違いは何かというと「フェーリック」の方は人類が進化するときに忘れていったもの「森」だとか、それを通過してきた「旅」だとかを彷彿させる。つまり上記にあげた御伽噺の特徴に見られるように、御伽噺は人類が落としていった「記憶」や旅の過程で得られる驚きや喜びの「感覚」が内在している。


ところで第一章で触れたブルトンの「自動記述」で得られる世界もフェーリック的な世界である。意図しないオートマテックなデペイズマンを受け入れる世界。かつそれが我々の現実と確かに結びついているという感覚。つまりおとぎばなし、メルヘンとはシュルレアルと隣接した領域なのだ。


3章 ユートピアとは何か

この本で一番面白かった章である。そも「ユートピア」とは理想郷のことを指すものだが、一体それは何なのか。東洋にも桃源郷というのがあるが、西洋のユートピアはそれとは違う。むしろ桃源郷とユートピアは対立するものと言ってもよく、ユートピアは楽園とは遠いものである。


そも代表的なユートピア文学とは偶数世紀に書かれている。偶数世紀とは16世紀はルネッサンス、マニエリスム、18世紀はフランス革命、20世紀は言わずと知れた激動の世紀でつまり、ユートピアは危機の世紀に登場するものともいえる。


ユートピアの特徴として防御壁を持った理想都市として書かれている。ユートピアの特徴を見てみよう

1 空間構造は周囲から隔絶された状態である。城壁で囲まれるあるいは島の形をしている。

2 町の構造は直線の基盤の目か、正確な円形かの幾何学構造である

3 家も平等化、画一化され、自然も移植され幾何学状に配置される

4 ユートピアには歴史時間がなく、サイクル的な時間割がある

5 人に個性はなく、機能化された人間がいて、衛生観念が行き届いている。

6 闇がなく、町全体が蛍光灯に照らされたように均一に明るい


隔離され、画一的、衛生的、きれい、明るい、臭いがない、質素これらがユートピアの特徴である。この様子を思い浮かべて欲しい。

「自由」であると思っていることで、「自由」を失くしている。「自由という幻想」に取り付かれた無個性な規則的、反復的世界。なんだかぞっとしないではない・・・

ジャック・モノーという科学者は知的生物の特徴は規則性と反復性で、知的生物のない場所には直線や完全な円形は存在しないと言っている。あるのはミツバチの巣と結晶だけだと・・・。ユートピアは自然を愛するが自然にも結晶やミツバチの巣なるものを要求しているのである。・・・ユートピアを思うときそれは地獄に通じているとも見える・・・


ところでそのユートピア神話はすでにサドのユートピアの地獄性の公証、そしてフーリエのユートピアノ拡大における乱交性によって破壊されているのである。シュルレアリスムもユートピアと同じく、どこか別のところを思い浮かべながら、絶えざる変容を腐敗を要求している点でユートピアに対立した領域である。つまりユートピアというのは常われわれの使う領域とは異なったもののことをさしているのだ。


 

最後の章は、幸福とは何かの問いかけにも似ている。私も昔、現実逃避による空想癖があって、ユートピア的なものを常に頭の中で構築していた時期がある。確かにそれは周囲から隔絶され、無個性で反復的、機能化された日常があり、機能化された町であった。そのことを思い出して、我知らずぞっとした正月なのである・・・・








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