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『Tokyo Ghetto』

先ほどまで西堂行人先生による、前衛演劇講座の飲み会にいた。今期、講座の締めくくりは清水信臣率いる「解体社」の『Tokyo Ghetto』の映像鑑賞。東京がゲットー(第二次世界大戦におけるユダヤ人の強制居住地域の呼び名)と化す姿を俳優の強靭な身体を通じて描く。


舞台ではオープニングから数十分に及んで男性俳優がひたすら女優の肩や膝をリズミカルに殴打。子気味よい打撲音がパシン・パシンと響く中で、観客は非常に心地の悪い思いを味わい、あるいは嫌悪感を味わう。そして次第に慣れという緩和が訪れたり、各々(殆どの観客はそうであろうと推測されるが)マイナスの感情を高ぶらせながら観劇する。表現は形式的、抽象的で、具体的なDVをリアルに表現するというものではない。しかし実際、殴打されている女優の肌は次第に赤くなり、鬱血し、痛ましい内出血の痕が浮かび上がってくる。


ビデオ上演が終了した後、この舞台を巡って賛否とは違った視点から多くの意見が交わされた。暴力における習慣化の問題から、表現そのものへの提言、例えば舞台における虚実の問題などにも議論が及ぶ。観客席におこる社会の構図それこそがこの作品の意図であるという意見。作品を作る要因となった意図の文脈まで示唆されないと、意味がないという意見。


かくいう私は、全く意見が述べられず。そも演劇とは何かの前提が揺らぐため、前提から議論しなければならないのだが、自分にとって演劇のゆるぎなくあらねばならぬ理想に意義を唱える作風である故に、拒絶反応があった。主要な反論としては舞台に美的構造が見られないということで、社会的主張であれ、風刺であれ、笑いであれ、それが美的構造を逃れるものであればそれは表現として成立しないという考えである。例えばピカソの「ゲルニカ」も恐怖感の裏側に美的構造を宿し、作品を風刺画ではなく世紀の芸術作品たらしめているわけだ。ムンクやフリーダ・カーロ、ゴッホ、ゴヤにもあてはまるだろう。


美的構造がなければ、本質的な物事における二面性という文学的な意義ももたらされない。もっとも西堂先生によれば、それがそもそもこの解体社の狙いであると言われれば、なるほどとしか言えなくなるのだが。


このような考えは直接、表現における認識の乏しさを現すのだろうか。釈然とはしない、またその釈然としなさを明らかに狙ったという意味で、狙いが的を得た作品を見た。


ちなみに解体社という集団は、海外で高く評価され毎年のようにどこかの国で招聘を受けているということだが、そのあまりにも直接的な暴力表現に日本の劇評家陣営からはいまだに無視の状態が続いているということ。関西で見られる日は遠そうだ。






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