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グリム2008舞台評

触りで書くはずの良之助展が割りと長い文章になってしまったので、記事を二つに分けた。自分の中でも整理のつかない「グリム2008」の批評として、常にレトルトを見に来てくださっている方から優れたものをいただいたので、了解をとってここに掲示したいと思う。演劇は決して評論するためのものではないとは思うけれども、今回のお客様の中には事前にロンダートに掲載された私の記事を読んだ、また事後に読んだために面白く見れた。という方も多かったので一つの視点として参考になればと思う。


(以下批評記事抜粋)

☆先日行われたレトルト内閣の観劇レポートです。

(観ていない方や演劇に興味のない方々には、今回の日記を読まれても分からない所が多々あると思われますが、ご了承下さい。)

 今回は「グリム童話」をモチーフに、音楽とダンスと芝居(7つ程の寸劇)をミックスさせた総合芸術でした。大まかな観点は以下の通りです。

 1.構成:カナリヤ(第9回)+倦怠アバンチュール(第11回)+グリム(今回)
 2.舞台進行:音楽+ダンス+芝居(7つ程の寸劇)
 3.物語から受けた印象:歳を重ねるに連れて汚れを知っていく
 4.客席から感じた観客の感想:きっと賛否両論

 ☆1.について

 今回の作品は、過去の作品を連想させる構成でした。これまでの芝居には、ラップ調の唄を折り混ぜながら進行する「カナリヤ(第9回)」、オカマの奇抜さを狙った「倦怠アバンチュール(第11回)」があります。グリム童話をモチーフにしていたので、白雪姫や赤ずきんや7人の小人達が出てくるのですが、キャラクターが現代的な表現をするため、「倦怠的な世界観」と「歌を唄う進行」が、どこかで観たものを連想させました。

 また、グリム童話をモチーフにしてはいるのですが、「グリム童話に込められたアレゴリー(教訓)がどこに生かされたのか?」までは見抜けませんでした。例えば、赤ずきんでは「あどけない女の子が一人でふらふらしていると、狼(男)に襲われてしまう。だから躾が必要だ」という意味があったような気がします。白雪姫では「魔女は、鏡を使って自分が美しい事を確認していたようだが、実は、他に美しい人を暗に知っていて、それに気付きたかったのではないか?」という異説も聞いた事があります。それらを踏まえると、「『グリム童話』を今までのレトルト内閣に取り込んだ」気がします。「『レトルト内閣が解釈した』独自のグリム童話」をもっと観たいと思いました。

 また、レトルト内閣独自の言葉使いとして、フランス貴族の怠惰な贅沢と大阪下町の庶民の雰囲気が、混在するアンバランス(面白さ)があるのですが、グリム童話に相応しいかは分かりません。童話はあくまで、分かりやすい言葉で物語を描き、その世界に教訓を含ませていくものだと思います。言葉の飾りが「ちょっと余計なもの」に感じてしまいました。逆に、レトルト内閣の新たなスタイルとして「飾らない言葉」を使うのも、別の可能性として感じたものでした。

 ☆2.について

 今回は、音楽とダンスと芝居の3つのパートに分かれながら、1つの作品に仕上げていました。生演奏に迫力があり、ダンスもなかなか面白く、色々な表現で魅せてもらった気がします。正直に面白い試みだと思いました。

 音楽の印象ですが、正常な思考を保つ歯車を狂わせたくなる衝動に駆られました。普段は抑えていながらも、誰もが持っていそうな狂気への扉に、後押しされる気分もしました。ドラムの音と、心臓の音と、赤ずきんを、「ズキン」という言葉で引っ掛けていましたが、これも一つの「言葉遊び」ですね。

 さて、作品の進行は常に「音楽がリード」していた気がします。最初は音楽のリードに奇抜性を感じましたが、1時間15分の公演時間で常に音楽がリードすると、ちょっと飽きてくるものがありました。

 場面によっては「個性のない音楽」があっても良いのではないかと思います。音楽は鳴っているが、あえて存在を主張せず、ダンスや芝居で魅せていく部分が欲しいのです。今回の芝居には3要素として、「音楽」「ダンス」「7つの寸劇」があったのですから、『音楽』を活かすための「ダンス」と「寸劇」、『ダンス』を活かすための「音楽」と「寸劇」、『寸劇』を活かすための「音楽」と「ダンス」のように、3要素の共存の仕方があると思います。それが観たくなりました。

 この調和が総合芸術の課題でしょうか?そして、同時に総合芸術の諸刃の剣だと思います。成功すれば3倍の面白さ、失敗すれば3つが生きて来ない。これは、難しいと思います。

 ☆3.について

・今回は、7つの寸劇がグリム童話をモチーフにしていながらも、お互いへの関連性がないまま1つの世界に同居しているようでした。整理されていない無意識的な思考をそのまま表現しているように見え、ロジックでの整理が不可能でした。こんな時こそ、今流行りのマインドマップを描いた方が良いのかもしれません。

 お話は、20代後半から30代前半の人が観れば面白いかもしれません。意図的に性的な表現行為へ踏み込んでいくシーンを見ていると、「年齢を重ねるに連れて汚れを知っていく」気分にさせられました。

 『毒と分かっていながら毒を飲んでいく。そうやって自分を誤魔化しながらでないと、生きていけない。いつから自分はそんな日陰を知ったのだろう・・・?』

 
・レトルト内閣の持ち味には「不条理な悲劇にさらされるヒロインが、かつての恋愛感情を抱きながら、必死に耐え抜いていく」構図があります。女性から見れば、このヒロインに自分を重ね、男性から見れば、このようなヒロインに愛しさを感じるのでしょう。これが旗揚げ当時からの一番伝統的手段であり、一番の持ち味です。この構図がない時は、どうしても焦点がぼやけて見えてしまいます。 

 レトルト内閣として、これからも新しい要素を取り入れて欲しいのですが、この構図は崩さないで欲しいと思います。

 ☆4.について

・この芝居を観ながら、4通りの感想が生まれるような気がしました。

 1.音楽やダンスなどによる流動的な芝居を楽しむ人は満足。
 2.伝統的な不条理構成のストーリーを楽しむ人には、物足りない。
 3.まったくレトルト内閣を知らない人からすれば不可解。
 4.新たな可能性としてのきっかけを魅せてもらった。

 芝居を観ながらも、自分だけの視点で見れば、2.と4.ですが、自分の知っている高校生達が見れば、3.です。どうしても、芝居中に彼女達の首を傾げる姿が頭に浮かんでしまいました。そして、客席で今回の印象を整理していると、席を立つ観客も「何かよくわからんかった」という感想をボソッと言っていました。

・今回は、実験的な要素を感じます。公演の成否よりも、様々な発見があったと思います。次回はどうなっているでしょうか?

 私の思った事もまとめておくと・・・
 1.グリム童話をレトルト内閣として解釈して欲しかった。
 2.音楽とダンスと寸劇の調和
 3.伝統的な不条理構成の踏襲

 どれも「言う易し行うは難し」です。特に2.は大変ですね。個々は凄く素晴らしいのですが、素晴らしい分、調和が難しいと思います



・・・・ちなみに、☆3の「不条理な悲劇にさらされるヒロインの構図」について、私がこのようなコメントを載せたところ、さらに返信をいただきました。


(コメント)

私は舞台に自分を投影することに嫌悪感をずっと抱いていていました。不条理な苦痛に耐えていく女性像を舞台に見ることが確かに私のスタイルでした。でもその奇妙な自意識に嫌悪を感じていて、それが舞台を作ることの意味にもずっと疑問を付与していました。自分の奇妙な感覚を涙や笑いを付与することでお客様の同情を求めているのではという疑問が、自慰行為に見えもし、それに苦しみました。

今舞台で一番自分の演劇に対する視点に変化があったことは、舞台でなく客席側の人間に自分をうつしてみたということです。不条理な苦痛に耐えるのは舞台上の俳優ではなく、客席の誰かだというふうにかんがえてみました。今までは決して言わなかったであろう台詞、「頑張りたまえ」と客席に向って何度も叫んだのはそういう理由です。それが良いのか悪いのか、しかし演劇というものは決して私じゃなく、見ている人の心の影であり、鏡であり、許しであり、夢であり、後悔であるべきではないかというのが悩んだ挙句、私の考えた一つの到達点です。

(コメントに対する返信)

返答が遅れて申し訳ありません。

 2種類のコメントを書かせて頂きます。

 1.書き込んで頂いたコメントへの個人的な意見
 2.レトルト内閣の観客としての個人的な意見

1.について
・舞台を観ていると、役者独自のクセが出てくるのですが、今回はクセを殺していた感じです。役者によっては、自分独自の解釈で間を取ったり、表情に余裕を浮かべる時があるのですが、難解な書物を読解した後の気分を身体で表現しているみたいでした。しかし、難しかったなりにも役者としての根性は出ていたと思います。白雪姫が頑張っていました。

・お客さんの感想は、直感でもありますが、どうしても自分の知っている高校生が首を傾げる姿を想像してしまいました。おそらく、私は何作もレトルト内閣を観ている事によって、少々奇抜な事をしても、刺繍さんが意図するものをある程度、推測が出来るからかもしれません。同時に、普段接している高校生達の様子を頭に浮かべると、何も知らないまま観れば、奇抜さに目を奪われて、本質までたどり着けないだろう、という推測がどうしても立ってしまったのです。

・「舞台に自分を投影する事への嫌悪感」は一つの変化だと思います。私の体験からすれば、「嫌悪感は一つの変化」であり、「そこに至る過程がどんな形にしろ大切であった」と思われた方が良いと思います。

・「舞台でなく客席側の人間に自分をうつしてみた事」は、面白い試みだと思います。そのようにおっしゃるまで、刺繍さんの視点は分かりませんでした。しかし、それでは「分かる人にしかわからない」と思います。不条理な苦痛に耐えられる程に、観客の目が鍛えられているようには思えません。それゆえに「何かよく分からなかった」とボソッと言って帰ってしまった人がいたのですから。

 真の芸術は理解者を限定するかもしれません。ですが、ある程度の一般性はチケット代を払った観客への期待に応えて欲しいと思います。どちらかといえば、私の目線が特異であり、精緻な考察が出来ても、一般性が伴わないと思います。それゆえ、次の公演への手がかりは、一般の方のアンケートを参考にして下さいと書きました。

・今回は、一つの総合芸術への手がかりと思われた方が良いと思います。回を重ねるごとに規模が大きくなり、調整が難しくなっている気がしますが、難易度を上げる分、到達するものにも新たな発見があると思います。個人的には、どうか同じようなものにチャレンジして欲しいと思います。

2.について

 観客からすれば、良くも悪くもレトルト内閣には固定的なイメージがあります。レトルト内閣に「また誰か死ぬ芝居?」という固定イメージがあり、私達の言う「不条理な苦痛に耐えていく女性像」もまた一つのイメージかもしれません。観客は、そのイメージから次回作がどんな展開を繰り広げるのだろうという期待を抱くと思います。

 その期待からすると、今作は「何がしたいのか分からなかった」という印象を拭えないと思います。良くも悪くも「固定された期待」とは違いました。それゆえ、「新たな価値観」には賛否両論がつき物だと思います。

 ところで、私は高校生の頃に精神科医と話をした事があります。当時は、将来の夢として「小説家になりたい」と言ったのですが、医師は「純粋に自分が書きたい小説は商売にならない」と言いました。なぜなら、それは「貴方が見たいものであり、他の人が見たいとは限らない」からでした。しかし「他人受けするものばかりも流行らず、他人受けするものにも、自分の意見を踏まえる必要がある」と言いました。「しかし、それがまた難しい・・・。」

 私がレトルトに期待した「伝統的な不条理構成の踏襲」も一つの固定イメージです。その構成が最も分かりやすく、安定的に劇団として活動出来ながらも、変化を加える事が出来ると思ったからです。刺繍さんにとっては、同情や自慰行為だったのかもしれませんが、「レトルト内閣としての期待」には応えていたと思います。

 しかし、奇しくも、「客席側に自分をうつしてみる」という新たな視点に踏み込んでしまいました。その視点を捨てる事はもったいないですね。ですが、「かつてのレトルト内閣」も捨てないで下さい。次回作のヒントは、この狭間にあると思います





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