刺繍草紙

logs

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

赤い櫛(前編)

男は長屋の娘に夢中でした。彼は元来、身持ちが固かったのですが、そういった男によくあることで、一度身持ちを崩してしまうと、もう元には戻らないのでした。その娘は白くてつるっとしたうで卵のような肌に、丑寅の方向にパッチリ釣りあがった鈴型に黒い切れ込みを入れたような瞳をしておりました。あとの特徴としては黒々とした眉を持っていたようにも思えます。娘はいつもむっつりとしており、かといって不意に気分が良くなるとケタケタと笑うのでした。男はそれを聞くと無性に腹立たしいような、絞め殺したいような妙な気分になるのでした。


ところで、男には長年連れ添った細君がおりました。細君は長屋の娘のことは何もかも承知でおりました。女は経済的には落ちぶれてはいたものの、相応の家柄出身で深窓の姫でありました。19で男に嫁いで国へ来てからは、男ももとは生真面目な亭主であったため、女はこれといった苦労も知らずにきたのでした。よって可愛そうに、今度のことは女にとっては酷くこたえ、気の滅入る日々を過ごしておりました。洗濯場で会う近所のかみさんなどは、亭主の浮気など優しくしていればいずれ戻ってくるもののと笑って慰めるが、思い切って告白した細君は、余計に不安な気持ちを増し、夫の帰りを首長く待ち続けるのであった。ところで女には嫁入りの時に持ってきたつげ櫛がありました。右上部に牡丹を彫って散らした幼女の頃より大切にしていた櫛でした。女はこの頃では男を待ちながらなんとはなく髪を無心に梳いているのでした。夕飯の支度を整えてから、女は鏡台の前に座り、男の帰りが遅ければ遅いほど、女はその間ずっと熱心に髪を梳きました。


ある時、いつものように丑寅の方向にひっぱられた瞳をしばたたかせ、長屋の娘が言うことには「あたしは彼岸花の一番濃い赤い部分を滴らせたような真っ赤な櫛が欲しい」。そうして有無をいわせず男がそれを娘に持ってくるだろう事を決めてしまいました・・・・男は、櫛など買ったこともなかったのでどうしてよいか分からず櫛屋のままを三往復ぐらいしました。夕刻に水を打っていた番頭がいぶかしげに彼を見やると彼は一目散に家に帰ってしまいました。家に帰った男は妻の差し出した座布団の上にすまなさそうに座ると、おそるおそる妻にこう尋ねました。「お前、うちに要らない櫛はないだろうか?彼岸花の一番濃い部分を滴らせたような赤いやつはないだろうか?」細君は驚いてしばらく夫の顔を見ましたが、その顔を見て夫が少し苛立ったのが分かると黙って隣の間に向かいました。

細君はすぐにあぁ長屋の女に頼まれたのかと分かりました。鏡の前で暫くじっとしていた細君は、鏡台の引き出しから自分の使っていたぼたんのつげ櫛を取り出すと懐紙にくるんで粗末なものですが・・と彼に渡しました。その櫛は、妻がずっと髪を梳いていたもので、夫を待つ長い間ずっと梳いたために櫛先が頭皮を擦り、その吹き出した血が滲んで真っ赤に染まっていたのでした。妻はおずおずとそんなことを自分に尋ねた夫が可愛くもあり、また幾分哀れでもあり、でも本当のところは復讐や恨みという気持ちからその真っ赤な櫛を渡したのかもしれないのでした。そうとは知らず男は真っ赤な櫛を持って、長屋の娘のところへ行きました。

トラックバックURL

http://shisyw.blog81.fc2.com/tb.php/290-b861c5b0

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

コメント投稿フォーム

Paging Navigation

Navigations, etc.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。