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舞台俳優

演劇の定義の数は、実際にはきりがありません。この自堕落な堂々巡りから逃げ出すためには、足し算でなく引き算が必要なことは、だれの目にも明らかです。すなわち、「それがなければ」演劇が存在できないものはなにか、ということが問われなければなりません。・・・俳優なしに演劇は存在できるでしょうか?私はそうした実例を知りません。・・・・・・こうして俳優と観客が残ります。したがってわれわれは、演劇を「観客と俳優のあいだで起こるもの」と定義することができます。他のすべてのものは補足的なもの―必要ではありましょうが、やはり補足的です。

                          

?????????????????????????????  ?????????????????????????????????? グロトフスキー『実験演劇論』より

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なんといっても私達は小劇場が役者の強烈な個性、意表をついたアドリブ台詞の連発や即興的なテンポの面白さが主流だった時代にまさに演劇をはじめた。その中では俳優の技術はどれほどの時間、その個性と面白さで空間を維持できるかということであった。

そうしてそれらのブームが行き着く先まで行って、低迷していく様子を直に見てきた時代に劇団を旗揚げた。私はそういったその場しのぎ的面白さに反発を感じながら、どちらかといえば、そういった感覚を排除するように働き、初期は戯曲への回顧をなし、その後、演出至上主義から映像や身体、ビデオクリップ感などコンテンポラリーでアヴァンギャルドな新形式の確立を模索していったのである。

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一方で作品は私小説的趣が強くなり、自分自身の内面をいかに深く探るか、そこから来る衝動を的確に掴み、その表現いう形をどれだけ普遍的に興行的に見せるかというアプローチをとった。ある時、その新形式の確立、私小説的趣のゆきすぎが行過ぎて、彼らが「それはやりたくない」と言ったところで衝突がおきた。そこで自分なりに思案した結果、ではそも彼らの表現衝動は何に触発され、何によって刺激され、何が彼らにとって演じるということを誘発し、何によって満足するのか、それらはどこに向かいたがっているのか…という疑問が生じた。まずそれを知ってからでないと先に進めないと感じたのである。

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問題なのは、彼らのうち誰も自分の表現について明確な言葉を持たないということだった。考えた末、思考時間を与えたエチュードや自分の演技におけるこだわりなどを話すことで、それらを探る方向に動いてみた。つまり単純に言えば何が好きで、何が嫌いか、何にインスパイアされ、何をコンプレックスとしているのか、なぜ演じたいのか?・・・ストーリー、音楽、体感覚、単語、真似、イメージの選択、疑似体験、・・・何を選び何を選ばなかったのかでその演技におのずから表現衝動と欲求が現れると考えたためである。その結果いくつか面白いポイントが浮かび上がりつつある。戯曲や演出といった形式に当てはめながらもその衝動点の幾つかに的確な刺激を与えることで、面白い作品が出来るかもしれないと考えている。それは自ら演じるときも同じことが言えるのだろう。

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この試みがどうなるから今後のお楽しみだが…今のところ追及すればするほど謎が深いということもあり面白い。

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