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タデウシュ カントール 「わたしは決して戻らない」

 講堂の形をした教室に老人達が入ってくる。彼らは自分の若き時代を模した蝋人形を背負っている。突如、ワルツが鳴り始めると彼らは踊り、人形を床にうちつけ、すざまじい勢いで喋りだす。カントール自身が登場し、彼らを指揮しはじめ、その演奏(演劇)を終わらせる。

 その舞台はカントール本人の言うとおり演劇というよりハプニングの先駆けに近い。通常なされる心理的なプロセスによる表現ではなく、メカニカル的な感情表現方法、物質の組み合わせのアンヴィバレントによるシュールレアリスム的な手法。それらは俳優個々人にとっては明らかに演劇(演じる)ではない。カントールの舞台において俳優はむしろ有機的物質という一つの物質なのである。

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彼らの喋る言葉はインディッシュ語を含んでおり、ポーランドにおけるユダヤ人の虐げられてきた歴史に対する静かな反抗と忍耐の眼差しが根底に流れている。舞台を見て真っ先に思い出すのは彼らの目だ。ぎょろつかせ不穏に死を称え、しかしその死がまるで生であるかのように・・・彼の舞台において死は生き生きとしている。

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カントールの演劇は「死の演劇」と呼ばれる。それは無機的要素に溢れているということだ。カントールは過去にこだわり、過去に遡行する、というより「未来」が切断されている。常にカントールは切断に惹きつけられる。カントールの過去に関する概念はよくある未来との対比でもなく、いわゆる思い出や歴史といったよく書かれる概念ともまた違う。カントールの過去に対する向き合い方は「記憶の貯蔵庫」といったもので、その概念は歴史や生死にまつわる普遍性をいかに含んでいようがいまいが、非常に個人的なイメージから発せられるものである。この舞台でカントール自身が出演するが、カントールはそれを「芸術は権力と対極の位置にある。マスの力に拮抗する個人の強固さを示すために自分「カントール」という個人を出演させるのだ」と言っている。カントールの考える芸術とは個人の力強さを指し示すものである。

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「わたしは決して戻らない」

それらの人々は宿屋に集まる。司祭、弁士、売春婦が、道化が・・・それらはクリコット・シアターに登場したあの人々だ・・。最後にやってきたのが「芸術家よ、くたばれ!」だ。以前の舞台の亡霊たちは過去に遡行し、消え去る。最後に「私の最後のアンバラージュ」棺が残る。ユリシーズの「軍服」が残る。過去のがらくたが皿洗いによって掘り起こされる。はだしの女中は古代クロノスの従者に変わり、武装した「バイオリン弾き」のオーケストラに追われるように逃げる。死の教室が引きずりだされる。それらは流離い続ける、宿屋にユリーズがなされる、ユリシーズはマネキンであり、それは永遠に去り、残る私がユリシーズである。私は私の最後のアンバージュを運び去る。

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タデウシュ カントール, 鴻 英良
芸術家よ、くたばれ!

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