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「ナジャ」 アンドレ・ブルトン

今日は鬱屈抱えた夜なので、とてもとても・・・。飲まないと過ごせないので飲みながら、うろうろとあっちへ行ったりこっちへ行ったり心は狩猟で、身体はちいさく閉じこもる。羽は閉じる。接骨院の先生に肩が本来よりも内に入って、骨が曲がってしまっていますよと言われた。人の隣に座るときに、つい肩をすくめて内へ閉じている、ふっとと気付いて、身体を開く。対人接触には根本的恐怖がある。吃音もでる。瞳孔が開いているのを感じる。でも恐怖という感情が人間の中でとりわけ烈を極め、美に醜に近いことはなんとなく知っているのだから。だから目をつむって世界に向って心が開かれるイメージを・・・・・・・そんなイメージを・・・


1924年、仏の詩人、アンドレブルトンはダダを経て、さらに独自の運動を切り開き「シュルレアリスム宣言」を行った。シュルレアリストたちは自動記述という方式を用いてテクストを構築した。最速で、かつ速度を一定にしながら、思いつくままに単語を並べていくその記述実験は、相容れぬ単語の不思議な結合で特異世界を生み出した。その不安定を呼び覚ます超現実な世界は人間の潜在化におけるむしろ本来的な世界であると彼らは考えたのだ。


彼らはフロイトの夢分析に影響を受けながら、狂気と夢と現実を渡り歩くような危うい作品を生み出した。シュルレアル運動は、絵画に写真に文学に詩に演劇に、キリコ、エルンスト、デルヴォー、マン・レイ、ダリ、スーポー、アラゴン、アルトー・・・・シュルレアルのアーティストは数え切れなく、いずれもそれぞれに羽を延ばして独自世界を広げている。


「ナジャ」はブルトンの作品で、シュルレアル文学上最も重要な作品だ。


まず、いくつかのイメージの挿話が順序なく打刻される。キリコの画における物体配置について、ランボー、ロートレアモン、ユーゴ・・・まさに網の目のように主語述語無視の文体で、名詞、また名詞の接続詞なし。あっちへ飛びこっちへ戻り、困惑させるために書かれたオブジェ挿話が配列されている。説明したいところだが、まさしく読み返すのも癖ありで辛い・・・。とにかくこの話は「ナジャ」の話なので、別に挿話は読み飛ばせばいいのだが、そうはさせないところがブルトンで、わざわざ人を困惑の思考回路にもぐらせてから、本題に入る。その困惑は話を読む上で重要な前提、つまりスープのためのスプーンなのだ。


とにかくブルトンはパリの街角でナジャに会う。目を黒く縁取った奇妙な女にブルトンは思わず飲まれてしまう。


 彼女の名前はナジャ。「ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだからいいんです」


ナジャは奇妙な言動、不思議な風貌そして、暗示的で、意味深で、唐突だ。そして、それらが持つ不思議な美が発せられている。そして二人はしばしば、偶然的に、必然的に会うことになる。二人の間にはなんともいえぬ引力が発生することになる。


 いやたぶん私が望んでいると思う以上のことを彼女に考えさせ、行わせてしまう私の能力について、私に語り  

 かける。そんなやり方で、自分に背くようなことは何もしないでほしい、と懇願しているのだ。


彼女は不思議な言葉を放つ


 「あたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり」

 「自分の思考に靴の重みを負わせてはいけない」

 「神秘を前にしているのよ、石の人、分かってね」

 「火の手、これはあなたのこと、わかるわね?それはあなたなのよ」

 「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考なの」


彼女は象徴的な画を描く。目が花びらと仮した恋人たちの花、怪物の目から閃光を発する「猫の夢」・・・


ブルトンは彼女の不可解さに翻弄されながら、夢から狂気へと現実から非現実へ行ったりきたりする。その行き来の奮えとして彼女を望む、又は嫌気がさす。最後は結局、ナジャという女性は精神病患者であるということに帰結するのだが、その時にブルトンが試みる「狂気とは一体何なのか、そこに帰結はしない。私はナジャをそれとは別の次元で捉える」といった彼の強く弱い抵抗が物すごく切ない!!!・・・のは何なんだろう・・・・


 この結論は、君がときおりほほえみかけたときのように、涙の大きな茂みのうしろで、私にほほえみかける。「や  

 はり、愛なのよ」と君は言って、さらに不当にも、こう言い添えることがあった、「一切か無か、よ」と。


キリコやエルンストの絵画が胸に迫るように、なんとも言えない不安から感動が迫るのはやっぱり不思議だ。シュルレアルが人間の根本的現実の一面であることはいやおうないと思われる。


不安に近い。狂気に触れている。恐怖は美に近い。美とは一つの揺さぶりであり、静かな超然だ。


最後はこんな一文で終わる


 「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」











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