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江戸文化における「粋」と「奢り」

松本嬢が「あんだんて」、プリンセス藤が「月のテーブル」というブログを始めた。負けてなるものか・・と意気込むもののネット不通トラブル・・・回復まで1ヶ月・・・辛い。ま、わたしはピアニシモな感じで生きてますから・・・

かくいうものの、ブログが更新されなくても一向に世間様のご迷惑ではないばかりか、むしろ「劇団員も読んでやしない(涙)」と拗ねられないだけ、みんなは有り難いぐらいのもので・・・この事実はもしや自分の人生にも適応される式ではなかろうか・・・などということはあんまり考えないようにしたい・・・。


ところでビックニュースと言えば、私は悲願、松岡正剛先生の講演を拝聴に言ってきた。誰!?という人は是非先生のご本を読んで、先生と出会わなかったこれまでの人生を歯軋りしてくやしがって欲しい。現に私はそうして悔しがった。松岡正剛先生はまさしく日本のレクサス(ちなみに公演の内容はラグジュアリー(贅)についてであった)、日本の知識という方なのだ。最近では私は先生の書かれる「千夜千冊」を毎日チェックし、ブログ「せいごうチャンネル」をこまめにクリックし、机の上には「フラジャイル」と「ルナティックス」をのせて、悪い頭が良くなるよう、戴いている。


オンタイムセーフを自負する私だが、当日は奇跡か!20分も前に到着、正剛先生がよく見える前の席に陣取る。先生は仕立ての良いグレイがかった黒スーツをきっちり着こなして登場、思っていた通り、品があって、シックで、ちょっと可愛らしい!


演目はラグジュアリーにおける「粋と奢り」。平安朝において 「みやび」「ひなび」ときっぱりと分かれていた感覚は武家政治になり「あはれ」「あっぱれ」として倒錯するものとなる。例えば少年の死は「あはれ」であるものの武家政治においては「あっぱれ」となる。そのウラハラな感覚は秀吉の時代に個人の中に同居するものとして存在するようになる。侘び寂びの茶室を金箔で覆った北山の茶会がその例である。慶長文化においてその感覚は特に様々な例をおびはじめる。 吉原の太鼓持ちに身をおとしながら、優れた絵をかき続けた絵師、英一蝶や「風神雷神」屏風の後ろに「秋草」という図柄を挑んだ、琳派の酒井抱一、「粋」を超えてついに「やつし」という感覚に及んだ異端派哲学者 九鬼週造を例にあげながら、日本における非常に危うい美的感覚をレクサスとして説明。


熱演で予定時間を20分軽くオーバーするものの、聞くこちらも非常に吸い込まれるような熱のこもった話口調と分かりやすい説明にうっとり!先生の挙動については話足りないが、アホなファンをのさばらせると先生に迷惑がかかるのでやめておくけれども。更にファンになりました。


というわけで新ブログ「月のテーブル」と「あんだんて」も読んでやってくださいまし。



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