刺繍草紙

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Kraftwerkが好き

私の知る限り中津の伽羅という古本屋はこの辺りでは髄一の素晴らしい品揃えだ。ふと入ってその趣味に仰天、特集は「月」に関する本、レアな「星の王子様」の分析本がある。漫画は手塚、媒図、つげ。音楽は今はなきWAVE、芸術新潮に夜想、単行本は中沢、渋澤、三島、洋書はO嬢からオースター詩集、バロウズ・・・・狭い店内だけに厳選された本棚の素晴らしいセンスに感涙。こうして2時間近くも粘ってしまった。


その古本屋で97年3月号のレコード・コレクターズを買ってきた。その号はクラフトワーク特集。すっかり忘れていたけれどクラフトワークが好きだ。久々に聞いたらやっぱり古いけれどもクール。


所謂「テクノ・ポップ」、ピコピコサウンドの先駆け。最近また昔みたいな温かいピコピコ音が注目されたり初音ミクみたいなやわらか電子音が愛されたりしている、が全てこのクラフトワークをルーツとしている。


クラフトワークはドイツ西部で70年に結成。「発電所」の意味で当初はジャーマン・プログレ一派として紹介されたらしい。これのどこがプログレなのか謎だが・・・当初のドイツ音楽には様々な音楽語法や思想が流入していた。ミュージック・セリエルやシュトックハウゼン、ケイジ、ラ・モンテ・ヤング・フリージャズそしてドイツは東西ドイツ分裂という歴史的悲劇を抱えていた。彼らはこういった環境の中でラルフ・ヒュッターとシュナイダーの二人は知り合い、新しい音楽を生み出していった。2枚目のアルバムでドラマーが抜けた後を補ったために、温かみのあるドラムマシーが投入、74年「アウトバーン」でインダストリアルでマシナリーな音楽を堅固にした。トレードマークのアウトバーン、何をやっているか良くわからないライブ、音楽家ではないとの自称、こういったクールさ、そしてその先鋭音楽が世界中のミュージシャンに影響を与える存在となったのだ。


ちなみにデヴィット・ボーイはクラフトワークのコンサートで前3列を買い占めたらしい。さすが。というわけで久々の音楽テーマでした。そうして古本、万歳。

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すべてが狂っている

万歳日本のヌーヴェル・ヴァーグ!

「すべてが狂ってる」は戦争を知らないまま生きた子供達よ、太陽にやられて死んでしまえみたいな映画だ。

要は和製版「勝手にしやがれ」かな

時代背景がよく出ていて、鈴木美学もきちんと貫かれている


遊園地に行って、ぐるぐるまわる乗り物にのり続ける

車盗んで、走り続ける

泣きながら国道を歩き続ける

そんなスピード狂愛


音楽はシーンにスピードが出るやいなや演奏が疾駆しはじめる。

アクセルを踏めば強引な感じのサックスやドラムが入ってくるジャズがキューンと流れて

スピンのところで強引展開



下世話な連中ばっかり、はしたない状況ばかり

意味なく女を抱いて 

よく分かんなくて母親の愛人を殺しちゃう


瞬時瞬時の途切れがちな不条理思考

現れては消え、現れては消える、絶え間ない分断とその連続


「勝手にしやがれ」と違うのが

からっとした女上位で振り回して欲しい願望のゴダールに比べ

こちらの映画は男が女を振り回しまくり、女は従順

まぁ病んで苦しむ青年、病んで健康な女。根本的にはあまり変わらないのかもしれないけれども。

上海バンスキング

深夜番組でお笑いを見ていたら面白さのあまり今までの欝が吹っ飛んでしまった。

少し前は鳥肌実にはまっていたのだが、時々食い入るようにお笑いを見てしまう。

しれっとした知的漫才で洗練された笑いを狙う知能犯コンビか単独犯が好きだ。

アマチュアの漫才グループの中にネタを考える間一週間も誰とも喋らないことがあると言っていて生半可でない

真剣さがいい。笑いは音楽と似たテンポと間の面白さがある。


先日、舞台監督の奥田さんと、なぜかダチョウ料理を食することになり、他愛もないお話をさせていただいていたのだが、作品の話をするうちに、音楽を使った映画の話になった。


音楽映画ならなんといっても

「ピアノレッスン」が一番とお勧めしておいた。

最近見た「アマデウス」もよかったし、アレックス・コックスやキューブリック、フェリーニ、トリフォー、グリーナウェイ・カーフェイは音楽的才能に長けた監督だ。無音も音の一つとすれば監督というのは音に敏感な職業なのだろう。

舞台なら

音楽家でもあった中島らもの作品もいいし、ロックミュージカルに挑戦した新感線、後はバレエからコンテンポラリーまで音楽にインスピレーションを得るダンス系は音楽の強度が違う。

でも音楽舞台で忘れてはいけないのは言わずもがなの

斉藤憐「上海バンスキング」。

俳優が舞台でジャズを演奏するために楽器の演奏から習得した大作でストーリーも深い。古い作品だけれども色あせない。そういえば「アマデウス」のモーツアルト役の俳優もピアノの猛特訓に加え、指揮法まで学んで全て自分でやりきったという。


深夜のテレビにすら頭があがらない状況。



まつぼっくり祭り

昨日のまつぼっくり祭りはなかなか酔狂な盛り上がりを見せて、楽しかった。まつぼっくりさんの一見無謀とも思われるフットワークの軽さと、見かねて助ける周りに集まる人の才能に驚いた。「白色テロル」はわずか3曲のラインナップだったが、気に入ってくださって声掛けくれた方もいたりして、嬉しかった。


どんな音楽を聴くとかと聞かれて・・そんなことは聞かれたことがなかったので、驚いてピアソラが好きですなんて言ったが、分かってもらえず、これといった方もいないので、一体誰がすきなのか自分でも煩悶・・・演劇畑が板について小説や舞台を聞かれることはあれど音楽的質問をされたのは驚き。今度からは音楽畑も勉強しないと大変なことになりそうだ。


ということで・・・勉強がてら、今日は一日中、五線譜におたまじゃくしを埋めていく作業に没頭していたのだが、楽譜の読めない私としては気が遠くなるほどのイライラ。結局、PCに頼りながらの曲作りで一小節書くのに10分以上費やしてくたくたに疲れてしまった。一体、何のためにこんなことを・・・もうコードだけにしよう・・・なんて泣き寝入りし、またもや自分をとりまく限定や可能性や無意味さや困惑について考え、欝欝と雑誌を見ていたところ



「人生は趣味で選択されている」


という一文が・・・


スタジオボイス9月号で、細野晴臣が文化人類学者の中沢新一とアンビエントやアンドロギュノスについて語っている会談の中で、ソンタグの「反解釈」に触れ、この本を読んでいたとき、細野さんが「人生は趣味で選択されている」に「これだ!」って思ってその一文を吸収したということなのだが。


中沢新一はそれを受けて

「趣味は最も偉大な思想だからね。だってそれは頭の中のことだけじゃないから。味覚とか身のこなしから内面の心のコントロールまで、全部含めて趣味だから」

というさらりとした返答をしている。


なるほどね・・・それがあらゆる状況に当てはめてパーフェクトな回答になれればどんなによいやら・・・・曼荼羅的なお二人のことそんなことをさらりと言ってのけれるのだろうか・・・そういえばまつぼっくり祭りも曼荼羅的魅力に溢れていた。ソフィスティケートされた曼荼羅な人間になりたい。禅修行か、高野山か、記譜法の習得か・・・



本日、イベントあります

ライブにいったり、観劇したり(今週は3回も観劇した)、本や雑誌を読んだりで気持ちが充電されてきた。やはり本が一番豊饒なものを持っている。全てがこちらの想像力に委ねられるのだし、集中力の持っていきかたが違う。ライブは京音博に行ったのだが、国外の一流アーティストを見たことがとても刺激になった。観劇はすべて同世代の舞台とあって、特に感慨することもなく、やはりクオリティの問題をどこも抱えているという認識。演劇や映画、音楽、アングラであることのスピリッツと、アマチュアであることのリスクをどこまで消化できるかということを、どの程度認識出来ているのか自分自身含め承知しておかなくてはいけない世代に突入しつつあることを再認識させられたことは辛かった。


先週にGRAVITY VANISHEDさんの作品はカポーティや芥川、ポーを扱っていて、こういうのを猫なで声のラインナップと云ふんだろうなぁ・・・(好きってことです)。クオリティはさておいても、現代において忘れられたものを前衛的手法で取り戻そうというような表現意欲に共鳴するのではありますが。


先日メンバーのよしもとともしよと、バンドメンバーの新城あこと飲んでいて、愉しい時を過ごしたのですが、よしもとともしよは「俺はEarth, Wind and Fireみたいに生きたいのです」なんて妙なことを言っていて(あの Do you remember?で始まる『September』のグループ)、私が「自由が不自由でないなら、自由であることはとてもいいことだ」と言うと、二人とも苦笑いしていました。それでもよしもとともしよはずっと自由を享受したいという一抹の失望と共に動くのでしょうか。苦笑いな状況を抱えてしまって、良かれ、悪かれ。


いつまでもサリンジャーや春樹やオースター、フィッツジェラルド、カポーティーと共に。と考えたらナルシスティズムの鏡も背後に いわゆるな自由が哀しいです。


さて今から軽いイベントライブがあります。マリが出てくれることもあり、先ほどの話題に出てきた新城のボーカルも好きで、楽しみです。

華麗なるギャッツビー

ぼくがまだ年若く、今よりももっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。

「ひとを批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」


「あたしはね、あんたのことを正直で率直な人だと思ったんだ。それがあんたの誇りなんだと思ったの」

「ぼくは三十ですよ」と、ぼくは言った「自分に嘘をついて、それを名誉と称するには、五つほど年をとりすぎました」


新潮文庫(岡崎孝訳)



警句に満ちていて、だから何の間にも一定の距離をあけざるを得なくあり、しかしながら人に対する不毛の努力と情熱を捨ててしまうほどには腐りきっていない。村上春樹もフィッツジェラルドへのリスペクトを本の中で示している。久々、読み始めたら止まらなかった、あまりにも的外れで、それが的を得ているものだから哀しくなってきた。

精算会

公演が終わると数日後に「精算会」というものがある。読んで字のとおりお金を精算する会である。領収書の金額が払い戻されたり、ノルマがある時はノルマの支払いや弁当代の精算などがある。この精算、通常どこの劇団の制作さんも数日悩まされるものらしいが、うちの優秀なブレーン二人がかりで30分で終わらせたらしい。当然この優秀ブレーン二人の中に私は含まれていない、憂愁ブレーンなら入れるかもしれない・・・


とそんな詰まらない語呂合わせはさておき。この精算会、お金だけでなくいろんなものが精算される。だいたい、打ち上げは皆、高揚のあまり浮かれトンボなのだが、数日経た精算会だと頭を冷やし、色んな意見を聞いたりして、冷静に今公演の成果を分析してくる。次の目標まで打ち立ててくるメンバーもいるし、逆に目標を見失うメンバーもいる。各劇団、引っ張りだこのゲストさんなんかはもう次のリハに突入していたりする。私は打ち上げよりも、この精算会の方が好きだ。メンバーやゲストさんの表情を見たり、話を聞いたりして彼らの感情の形を確認する。


ゲストの山本さんは今回、随分悩んでいたみたいだが「十人いて十人が十通りの結論を導く形であった今回の舞台について、当初よく分からなかったが、今は意義を感じることが出来る」と言ったことを語ってくれた。映像の萱野さんは今回、なかなかの自信作だったようだ。メンバーのこみたおは「もっと繊細な演技が出来ますよ」なんて大それたことを言っていた。私もそう思う。ゲストの那伽さんや、けいちゃん(福田恵)はもう次の公演のリハに忙しいそうで、気持ちも新たにという顔をされていた。またよければ見に行ってあげてください。


それで生計を立てているわけでもないので、ゲストの方にしてもメンバーにしても評価や成功という概念から全く自由になる俳優など殆どいない。野心や野望がある一方、袋小路があり、岐路があり、障害がある、もしくは偏った人生論、変なナルシズム、思い込み、逃げ道・・・・。レトルト内閣はいつも人々のマイナス側面の中にある輝きを描いてきた。うまくいかない憤りや偏りや悩み、不安定さは決して否定するものではないことを作品を通して伝えている。消えるもの、欠けるもの、足りないもの、満たされぬもの。『負の美学』が我々の共通言語である。


演劇の魅力とは何だろう?今回の台詞にこんなフレーズがある。


「『精算性』がマイナスになるような私はそこの水溜りにでも飛び込んだほうがいいのでしょうか?」


水溜りで北島選手みたいに綺麗に泳いでみるか。


白色テロル space

「グリム2008」でVo.をしてくれたマリのmy spaceをいいなと思いつつ、登録して放置していたのをとりあえず、体裁を繕って白色テロルのmy spaceを作ってみました。ネットでの視聴は音質が悪かったので、だいぶ圧縮率をさげて、ほぼ全曲丸ごと載せました。

歌詞も見ることが出来ます。どれもテロルのライブではお馴染みの3曲です。

これに味を占めたらレトルト内閣で使った曲などをアップした私個人のスペースも作ってみようと思います。


Vo.は臨時的にドラマーの山崎エリカとアコギの新城あこがやってくれています。

二人ともタイプの違う声なのでそれぞれの雰囲気にあった曲を歌ってもらいました。

臨時でほぼぶっつけで歌った割には二人とも曲の特徴をよくとらえた上で個性を乗せるところまで頑張ってやってくれました。前ボーカルもカラーが強く、華のある声でした。辞める時にはゴタゴタしましたが、今では、元気でいてくれたらそれでいいと思ってます。


http://www.myspace.com/hakusyoku


テロルでいつもやる楽曲に「夜汽車」という曲があります。

私の曲はこうやってどこかタガが外れて遠くへ行ってしまうような疾駆曲ばかりです。

帰ってきたくなくなるほど遠くへ行きたいのですが、ワン・ウェイチケットゆえ、想像力で全ての願望は補完して地味に生きるのです。明日も朝は7時に目覚めて顔を洗うでしょう。


寺山修司の「幸福論」にこんな記述があります


「私の詩のなかには

いつも汽車が走っている

だが私はその汽車に乗ったことがない」





ニーノ・ロータ

公演が終わったので師匠、レプリカントの佐藤香聲さんに挨拶がてら遊びに行く。今回は予定が立て込んでどうしても見ていただけなかったことが悔しくて仕方ない。劇場付きのカフェ「シュール」に伺って、佐藤さんのインスピレーションの源を探るべく本棚とCDラックを漁りまくる。特定支持者の多い雑誌「夜想」、シェイクスピアに関する書籍、寺山修司に関する雑誌、SF大全、アヴァンギャルド映画論、フェリーニ作品を多く手掛けている音楽家ニーノ・ロータに関する書籍が2冊もあって新たなソース発見に喜ぶ。プログレ音楽を再考する雑誌で自ら赤線を引いておられたので思わず注目・・・「ピンクフロイドの『原始心母』がロック界に与えた意義」、「プログレ音楽はブラック・ソウルからはじき出されたものである。その傾向として、欧州的、そしてクラッシック音楽への傾向が見て取れる」などという箇所が赤く線引きされてある。・・・ラックには今回客入れで使ったものと同じCDがあり、少なくとももう1枚私が所持しているものと同じものがあり喜ぶ。


色々と悩んでいることなどを相談に乗っていただき、演劇の形について現在考えていることを聞いてもらう。

近作も丁度過渡期であった時に、佐藤さんに電話して、なかなか皆にうまく説明できなくて悩んでいると「練習は週に一回にして、俳優に優れた映画、美術、音楽を聴いてもらって、その報告を受けなさい」というアドバイスをいただいた。日常からインスピレーションを得るようなハードな人生を送っている俳優は少ないのだから、演劇以外の芸術からも想像力を得なければいけない」ということだった。レプリンカントのメイン女優、結貴子さんからは「客の目線で台本を読む俳優ではなく、客の目線を越える台本の読み方をする俳優にならなければお金はとれない」といったアドバイスをいただく。


今回は我々の作品の未熟さが目についた。それはより高いところが見えるようになったという部分もある。演劇に対する捉え方を佐藤さんに話すと、それを今頃気付くのは遅いと言われた。この1年ぐらいは、偉大な作品との圧倒的差異に自分がものを作る意味まで考えたし、映画にせよ音楽にせよ頭を打つ作品を見続けた。しかし劇団を旗揚げたころの不勉強な自分だと、その素晴らしささを認識することすら不可能だったろう。忘れもしない旗上げて1年半ごろのことだ、私はコクトーの名前が分からず、誰ですかと聞き返したのだ。コクトーを知らない舞台人、ましてや劇作家など話にもならない。今でこそ顔から火を吹きそうな失言だが、その時は単純にきょとんとしていた。それから色々と勉強して、コクトーの作品は殆ど見たし、本も読んだ、彼のドキュメンタリーまで見たほどだ。そうして勉強して知識が深まれば深まるほど、知らないことの多さと、我々の作品がまだまだであることを知る。今回の作品は一番好きだが、満足度は一番低い。目標設定が高くなったためだ。

とはいうものの今回は俳優も大変な中、食いついてよくやってくれた。メンバーは以前より私が優れた作品だというものを見に行ったり、ブログの記事を参考に本や美術を見たりという努力をしてくれる。もともとまじめで勉強熱心だし素直なので吸収がはやい。藤はもともと美学を学んでいたし、吉本なんかは逆に教えてくれたりするほど幅広く興味を持っている。睡蓮はそもそものセンスがあるし、今回、松本も川内も未知のものへの容認という部分で発想に広がりが出ていた。こみたおも悪戦苦闘したせいか一段抜た気はしている。私こそ彼らの発想を超える努力をしなければいけないと俳優の成長を見つつ思う。


その後、維新派のメンバーがやっているバーが近くにあるというので飲みに行った。松本雄吉先生がいらして、ご紹介していただくと「レトルト内閣さん、知ってますよ。なんか面白いらしいですね。」「一度行きたいのですけどね」とおっしゃっていただいた。良いおじいさんとの印象の松本先生、何かの本で学生時代に女子トイレの汚物いれからタンポンを集めてタンポンの木のアート作品を作ったという箇所が思い出された。まだまだお顔にやどる想像力のとばしりが素敵だった。


無関心な頭脳

寝台車の中で私はワセリンを撫ぜた

空間の次元は柔軟で愛は四メートルだ

われわれの われわれの愛は腐った氷河のように髑髏となってぶらさがる

食べろ飲め撃てそれをノック・アウトしろ  

(ツァラ詩集より)


ネットもテレビも内閣解散で大騒ぎだった。福田首相の退陣に対して潔いという印象よりまたか・・という落胆の方が大きい。よくも悪くも、現代の日本の世相にあった首相だったように思う。根気の強さのようなものに一目置いていた。阿部首相退陣の頃から、政治の中に自分の後ろめたさが透過されるような気がしていた。低迷していく景気や混乱していく社会の責任を誰かに押し付けて、明朗な解決を提示せぬ曖昧さを非難するのは容易い。しかし誰のための非難か、その容易さを一体どのくらいの日本人が認識しているだろうか。

グリム2008舞台評

触りで書くはずの良之助展が割りと長い文章になってしまったので、記事を二つに分けた。自分の中でも整理のつかない「グリム2008」の批評として、常にレトルトを見に来てくださっている方から優れたものをいただいたので、了解をとってここに掲示したいと思う。演劇は決して評論するためのものではないとは思うけれども、今回のお客様の中には事前にロンダートに掲載された私の記事を読んだ、また事後に読んだために面白く見れた。という方も多かったので一つの視点として参考になればと思う。


(以下批評記事抜粋)

☆先日行われたレトルト内閣の観劇レポートです。

(観ていない方や演劇に興味のない方々には、今回の日記を読まれても分からない所が多々あると思われますが、ご了承下さい。)

 今回は「グリム童話」をモチーフに、音楽とダンスと芝居(7つ程の寸劇)をミックスさせた総合芸術でした。大まかな観点は以下の通りです。

 1.構成:カナリヤ(第9回)+倦怠アバンチュール(第11回)+グリム(今回)
 2.舞台進行:音楽+ダンス+芝居(7つ程の寸劇)
 3.物語から受けた印象:歳を重ねるに連れて汚れを知っていく
 4.客席から感じた観客の感想:きっと賛否両論

 ☆1.について

 今回の作品は、過去の作品を連想させる構成でした。これまでの芝居には、ラップ調の唄を折り混ぜながら進行する「カナリヤ(第9回)」、オカマの奇抜さを狙った「倦怠アバンチュール(第11回)」があります。グリム童話をモチーフにしていたので、白雪姫や赤ずきんや7人の小人達が出てくるのですが、キャラクターが現代的な表現をするため、「倦怠的な世界観」と「歌を唄う進行」が、どこかで観たものを連想させました。

 また、グリム童話をモチーフにしてはいるのですが、「グリム童話に込められたアレゴリー(教訓)がどこに生かされたのか?」までは見抜けませんでした。例えば、赤ずきんでは「あどけない女の子が一人でふらふらしていると、狼(男)に襲われてしまう。だから躾が必要だ」という意味があったような気がします。白雪姫では「魔女は、鏡を使って自分が美しい事を確認していたようだが、実は、他に美しい人を暗に知っていて、それに気付きたかったのではないか?」という異説も聞いた事があります。それらを踏まえると、「『グリム童話』を今までのレトルト内閣に取り込んだ」気がします。「『レトルト内閣が解釈した』独自のグリム童話」をもっと観たいと思いました。

 また、レトルト内閣独自の言葉使いとして、フランス貴族の怠惰な贅沢と大阪下町の庶民の雰囲気が、混在するアンバランス(面白さ)があるのですが、グリム童話に相応しいかは分かりません。童話はあくまで、分かりやすい言葉で物語を描き、その世界に教訓を含ませていくものだと思います。言葉の飾りが「ちょっと余計なもの」に感じてしまいました。逆に、レトルト内閣の新たなスタイルとして「飾らない言葉」を使うのも、別の可能性として感じたものでした。

 ☆2.について

 今回は、音楽とダンスと芝居の3つのパートに分かれながら、1つの作品に仕上げていました。生演奏に迫力があり、ダンスもなかなか面白く、色々な表現で魅せてもらった気がします。正直に面白い試みだと思いました。

 音楽の印象ですが、正常な思考を保つ歯車を狂わせたくなる衝動に駆られました。普段は抑えていながらも、誰もが持っていそうな狂気への扉に、後押しされる気分もしました。ドラムの音と、心臓の音と、赤ずきんを、「ズキン」という言葉で引っ掛けていましたが、これも一つの「言葉遊び」ですね。

 さて、作品の進行は常に「音楽がリード」していた気がします。最初は音楽のリードに奇抜性を感じましたが、1時間15分の公演時間で常に音楽がリードすると、ちょっと飽きてくるものがありました。

 場面によっては「個性のない音楽」があっても良いのではないかと思います。音楽は鳴っているが、あえて存在を主張せず、ダンスや芝居で魅せていく部分が欲しいのです。今回の芝居には3要素として、「音楽」「ダンス」「7つの寸劇」があったのですから、『音楽』を活かすための「ダンス」と「寸劇」、『ダンス』を活かすための「音楽」と「寸劇」、『寸劇』を活かすための「音楽」と「ダンス」のように、3要素の共存の仕方があると思います。それが観たくなりました。

 この調和が総合芸術の課題でしょうか?そして、同時に総合芸術の諸刃の剣だと思います。成功すれば3倍の面白さ、失敗すれば3つが生きて来ない。これは、難しいと思います。

 ☆3.について

・今回は、7つの寸劇がグリム童話をモチーフにしていながらも、お互いへの関連性がないまま1つの世界に同居しているようでした。整理されていない無意識的な思考をそのまま表現しているように見え、ロジックでの整理が不可能でした。こんな時こそ、今流行りのマインドマップを描いた方が良いのかもしれません。

 お話は、20代後半から30代前半の人が観れば面白いかもしれません。意図的に性的な表現行為へ踏み込んでいくシーンを見ていると、「年齢を重ねるに連れて汚れを知っていく」気分にさせられました。

 『毒と分かっていながら毒を飲んでいく。そうやって自分を誤魔化しながらでないと、生きていけない。いつから自分はそんな日陰を知ったのだろう・・・?』

 
・レトルト内閣の持ち味には「不条理な悲劇にさらされるヒロインが、かつての恋愛感情を抱きながら、必死に耐え抜いていく」構図があります。女性から見れば、このヒロインに自分を重ね、男性から見れば、このようなヒロインに愛しさを感じるのでしょう。これが旗揚げ当時からの一番伝統的手段であり、一番の持ち味です。この構図がない時は、どうしても焦点がぼやけて見えてしまいます。 

 レトルト内閣として、これからも新しい要素を取り入れて欲しいのですが、この構図は崩さないで欲しいと思います。

 ☆4.について

・この芝居を観ながら、4通りの感想が生まれるような気がしました。

 1.音楽やダンスなどによる流動的な芝居を楽しむ人は満足。
 2.伝統的な不条理構成のストーリーを楽しむ人には、物足りない。
 3.まったくレトルト内閣を知らない人からすれば不可解。
 4.新たな可能性としてのきっかけを魅せてもらった。

 芝居を観ながらも、自分だけの視点で見れば、2.と4.ですが、自分の知っている高校生達が見れば、3.です。どうしても、芝居中に彼女達の首を傾げる姿が頭に浮かんでしまいました。そして、客席で今回の印象を整理していると、席を立つ観客も「何かよくわからんかった」という感想をボソッと言っていました。

・今回は、実験的な要素を感じます。公演の成否よりも、様々な発見があったと思います。次回はどうなっているでしょうか?

 私の思った事もまとめておくと・・・
 1.グリム童話をレトルト内閣として解釈して欲しかった。
 2.音楽とダンスと寸劇の調和
 3.伝統的な不条理構成の踏襲

 どれも「言う易し行うは難し」です。特に2.は大変ですね。個々は凄く素晴らしいのですが、素晴らしい分、調和が難しいと思います



・・・・ちなみに、☆3の「不条理な悲劇にさらされるヒロインの構図」について、私がこのようなコメントを載せたところ、さらに返信をいただきました。


(コメント)

私は舞台に自分を投影することに嫌悪感をずっと抱いていていました。不条理な苦痛に耐えていく女性像を舞台に見ることが確かに私のスタイルでした。でもその奇妙な自意識に嫌悪を感じていて、それが舞台を作ることの意味にもずっと疑問を付与していました。自分の奇妙な感覚を涙や笑いを付与することでお客様の同情を求めているのではという疑問が、自慰行為に見えもし、それに苦しみました。

今舞台で一番自分の演劇に対する視点に変化があったことは、舞台でなく客席側の人間に自分をうつしてみたということです。不条理な苦痛に耐えるのは舞台上の俳優ではなく、客席の誰かだというふうにかんがえてみました。今までは決して言わなかったであろう台詞、「頑張りたまえ」と客席に向って何度も叫んだのはそういう理由です。それが良いのか悪いのか、しかし演劇というものは決して私じゃなく、見ている人の心の影であり、鏡であり、許しであり、夢であり、後悔であるべきではないかというのが悩んだ挙句、私の考えた一つの到達点です。

(コメントに対する返信)

返答が遅れて申し訳ありません。

 2種類のコメントを書かせて頂きます。

 1.書き込んで頂いたコメントへの個人的な意見
 2.レトルト内閣の観客としての個人的な意見

1.について
・舞台を観ていると、役者独自のクセが出てくるのですが、今回はクセを殺していた感じです。役者によっては、自分独自の解釈で間を取ったり、表情に余裕を浮かべる時があるのですが、難解な書物を読解した後の気分を身体で表現しているみたいでした。しかし、難しかったなりにも役者としての根性は出ていたと思います。白雪姫が頑張っていました。

・お客さんの感想は、直感でもありますが、どうしても自分の知っている高校生が首を傾げる姿を想像してしまいました。おそらく、私は何作もレトルト内閣を観ている事によって、少々奇抜な事をしても、刺繍さんが意図するものをある程度、推測が出来るからかもしれません。同時に、普段接している高校生達の様子を頭に浮かべると、何も知らないまま観れば、奇抜さに目を奪われて、本質までたどり着けないだろう、という推測がどうしても立ってしまったのです。

・「舞台に自分を投影する事への嫌悪感」は一つの変化だと思います。私の体験からすれば、「嫌悪感は一つの変化」であり、「そこに至る過程がどんな形にしろ大切であった」と思われた方が良いと思います。

・「舞台でなく客席側の人間に自分をうつしてみた事」は、面白い試みだと思います。そのようにおっしゃるまで、刺繍さんの視点は分かりませんでした。しかし、それでは「分かる人にしかわからない」と思います。不条理な苦痛に耐えられる程に、観客の目が鍛えられているようには思えません。それゆえに「何かよく分からなかった」とボソッと言って帰ってしまった人がいたのですから。

 真の芸術は理解者を限定するかもしれません。ですが、ある程度の一般性はチケット代を払った観客への期待に応えて欲しいと思います。どちらかといえば、私の目線が特異であり、精緻な考察が出来ても、一般性が伴わないと思います。それゆえ、次の公演への手がかりは、一般の方のアンケートを参考にして下さいと書きました。

・今回は、一つの総合芸術への手がかりと思われた方が良いと思います。回を重ねるごとに規模が大きくなり、調整が難しくなっている気がしますが、難易度を上げる分、到達するものにも新たな発見があると思います。個人的には、どうか同じようなものにチャレンジして欲しいと思います。

2.について

 観客からすれば、良くも悪くもレトルト内閣には固定的なイメージがあります。レトルト内閣に「また誰か死ぬ芝居?」という固定イメージがあり、私達の言う「不条理な苦痛に耐えていく女性像」もまた一つのイメージかもしれません。観客は、そのイメージから次回作がどんな展開を繰り広げるのだろうという期待を抱くと思います。

 その期待からすると、今作は「何がしたいのか分からなかった」という印象を拭えないと思います。良くも悪くも「固定された期待」とは違いました。それゆえ、「新たな価値観」には賛否両論がつき物だと思います。

 ところで、私は高校生の頃に精神科医と話をした事があります。当時は、将来の夢として「小説家になりたい」と言ったのですが、医師は「純粋に自分が書きたい小説は商売にならない」と言いました。なぜなら、それは「貴方が見たいものであり、他の人が見たいとは限らない」からでした。しかし「他人受けするものばかりも流行らず、他人受けするものにも、自分の意見を踏まえる必要がある」と言いました。「しかし、それがまた難しい・・・。」

 私がレトルトに期待した「伝統的な不条理構成の踏襲」も一つの固定イメージです。その構成が最も分かりやすく、安定的に劇団として活動出来ながらも、変化を加える事が出来ると思ったからです。刺繍さんにとっては、同情や自慰行為だったのかもしれませんが、「レトルト内閣としての期待」には応えていたと思います。

 しかし、奇しくも、「客席側に自分をうつしてみる」という新たな視点に踏み込んでしまいました。その視点を捨てる事はもったいないですね。ですが、「かつてのレトルト内閣」も捨てないで下さい。次回作のヒントは、この狭間にあると思います





下村良之助展

公演も終わったので、何か触発されるような美術を見たいと思い京都へ行った。

没後10年を記念して開かれた下村良之助展。

最近、日本画への興味の高さもあってか、また飛翔、月明、闘鶏など主題にあるものへの共感も手伝い非常に面白く見れた。良之助が描く人物画が漫画「おせん」の作者であるきくち正太の描く登場人物に似ているので、ここから由来しているのか、どうなのかというしょうもないことも気になりつつ・・・


パンリアル美術協会の旗揚げに携わった良之助の世界はキュピズムに影響を濃く受けた前衛日本画。版画や陶芸といったジャンルに及び、翔、眼、月などを主軸に一種独特の哲学に裏打ちされた画を展開。前衛手法の中に日本画というルーツを保つつ生涯を貫いてあり続けようとした自身のスタイルに心を動かされた。ちなみに、裏でやっていた「ユージン・スミス展」も丁度、戦争写真に関する本を読んでいた最中だったこともあり、印象深い。


http://www.momak.go.jp/


帰りに平安神宮の青甍を眼におさめると、あらゆることは全て小さなことに感じる。

良之助のような美学を前に、スミスのようなリアルをテイクする衝撃を前に、自分が何を出来るかという圧倒が重い。


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Navigations, etc.

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