刺繍草紙

logs

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

魔法にかけられて

日和からモレスキンの手帳をいただいた。ヘミングウェイが愛用していたというモレスキンは渋い黒皮に同じく黒のゴムバンドがはめてある、あえて無地のものを選んでくれたそうだ。実は欲しいなと思いつつも、ちょっと手帳にしてはお高いので手が出なかった代物だ。日和は「手帳だけは贅沢に」と言い、まさか彼女から不要の要を諭されるなんてと苦笑。私がずっと彼女に不要の要を伝えてきたのに。


代表に強烈にお勧めされた「魔法にかけられて」を二人で見に行った。ハリウッドとディズニーの合作かくや。アメリカの持つサクセスドリーム志向とポジティブなパワフルさ。ディズニーの洗浄しきったような、潔癖ワールド。そしてハリウッドとディズニーの持つ技術力の高さ。チケットを買って、映画館の椅子に座りさえすれば、あれやこれやと取り合わせ間断なく提供し、観客の手取り足取り・・・5分後に危機、10分後に爆発、2分後に恋、3分後にまた危機・・立ち直ってハッピー・・・みたいなサイクルで。


ハリウッド作品はとても綿密で高度なメソッドだなぁ、といつも見ると感心しています。

ウォルト・ディズニーは我々の夢というものを完全に土臭い匂いから切り離したところの一大ビジネスを展開したた。まさに消毒液の匂いがする夢やら子供の世界やら、よくやったものだ。


三名 「二次的三次的想像力を引き出す作品にまさるものはないよね」

日和 「私もです。例えば日本映画は空白がありますよね。余地が。それがいいですね。」

三名 「そうよね、白い部分が一番大切」


日和「私は演じるときにとことん考え抜いたんです。分からないセリフは言えなくて、その理由をとことんまで考えて言えるようにする。・・最近では、理解が深まり、考えずに分かるようになりましたけどね」


日和の演技はその向こう側にある世界を垣間見せてくれた。表情や仕草が意味を超えていくところに、矛盾の中にこそ、真実や説得力があるということを分かっていた。また本人もそれを見せることを重要視し努力していたように思う。彼女は誰にも分かってもらえない無用の努力をしていた。けれども無用の努力こそ、表現を愛した証拠じゃないかな。


彼女は今夜、旅立ちました。遠くにいても、一緒に何かしていくつもりです。ですが、ひとまずは日和を応援してくださった方々、お世話になった方々にここで御礼申し上げます。ありがとうございました。




スポンサーサイト

ハムレット

なぜか最近「ハムレット」の話題があがる。舞台に携わる人間が古典として最も尊重しやってみたいと考えている作品だからでしょうか。シェイクスピアの四大悲劇の一つとして最も愛されている作品だ。


関係ないけれどもミレイのオフィーリアの絵画が好きだ。狂気と美と静寂と悲しみと喜びの交点を描いたような絵だと思う。シェイクスピアも同じように狂気と美と静寂、悲しみと喜びの交点を描いている。


シェイクスピアの良さは分かりにくいとずっと思っていた。詩的さが日本語に直す段で失せてしまうことも一因だと思う。そもそも原作を、しかも読むのではなく舞台に乗せて聞かないと、本来の良さが浮かび上がらないのだろう。日本語の古語とはまたちがった固い文章になってしまうため、読んでもリアルな画像が浮かびにくい。

to be or not to be・・・生きるべきか死ぬべきか・・・の和訳が主流だけれどもニュアンスの違いは否めない、在るべきか、在らざるべきか・・・これの方がまだ近い気もする。最ももうこの台詞は一人歩きしておのずからデフォルメして聞こえてしまうのだけれども。


多くの舞台人がシェイクスピアを愛し、語るが、そのよさが咀嚼できないので勉強不足か感性不足か今ひとつ飛び越えられない踏み台みたいになっている。


ローレンス・オリヴィエ監督の「ハムレット」はシェイクスピアの良さを教えてくれる映画だ。そもそもシェイクスピア俳優として名優であったオリヴィエが自ら出演し、監督までしている。原作の香りを残すために、台詞に古典調の高らかさを残しながら、コクトー映画を思わすような不思議な美しさも醸し出している。


ストーリー
ハムレットの父であるデンマーク王がなくなって10日、母である王妃は王の弟であり、次期国王となったクローディアスに嫁ぐ。その母の移り気のはやさに絶望するハムレットはある日、城壁で父の亡霊に会う。亡霊は自分を殺した男は弟のクローディアスであり、彼に復讐するようハムレットに命じる。ハムレットは復讐のため狂気を装いはじめる。思い人であるオフィーリアにも辛くあたる。ハムレットは劇団の一座に王を殺した場面を再現する舞台を上演させ、クローディアスの顔色を見て王の罪を確信する。ハムレットは母を苛み、母の寝室に隠れていたポローニアスを王だと勘違いし忠臣のポローニアスを殺してしまう。ポローニアスはオフィーリアの父であり、父を殺されたオフィーリアはいよいよもって悲しみ深まり狂い死んでしまう。王はハムレットを使者に立て、イギリスに使わす。王は手紙にハムレットを殺すよう命じ、暗殺を企むがハムレットは無事に生還してしまう。王は死んだオフィーリアの兄でありハムレットを恨むレアティースをけしかけ剣術の試合を用意する。王は毒杯を用意し、毒の剣でハムレットを殺そうとする。しかし毒杯は王妃が飲み干し、ハムレットは王に復讐をなしとげるも、レアティースとハムレットは共に毒の剣に倒れてしまう。

レンブラントの夜警

ふと気付けばグリーナウェイの新作が終わろうとしていた。グリーナウェイといえば、個人的に苦い思い出があるのに加え、かつ昨今多忙なのでもう見ないでおこうかと思ったが、やはり映画館に駆け込んだ。


テアトル梅田で朝の10時からコアな人々が詰めている。さすが、圧巻、文句なし!エンド・ロールは誰一人として席を立たなかった。映画館で見ておいてよかった。良いことがなく、表現というものに直面から苦しんでいただけに、救いのようなものまで感じる。本物というのはこういうことを言うのだろうと納得。


レンブラントを扱ったからか、光の表現に一層の凄みが増したようだ。ワンシーンの美しさに忽然となり、光だけで感動がもたらされる。17世紀、すでに富と名声を得ていたレンブラントは、アムステルダム市警団の絵を描くように依頼された。彼らの裏の罪を絵画を通じて告発するという内容だが、ストーリーは分かりにくく、むしろストーリーを追いかけると逆に「?」が連発で惑わされるので、絵画を見るように美に耽るというのが正しい見方だと思われる。

等間隔におかれた壷のある部屋の美術、絵画的なテーブルセッティング、吊り下げられた食肉や鶏やら、欲望と残酷さを連想させる凝った道具類、衣裳、古典と現代音楽を混ぜ合わせた、弦の震えが伝わるような音楽、どれもすばらしい。

演劇的手法を随所使っており、俳優の動きはかなり厳密に定められていて、小さな仕草から、立ち位置、動きとすべての構図に徹底的にこだわっている。


けれども構図、構成美に目が行き過ぎて、ドラマはあんまり感じられなかったので、美術館にでも行って来たような気持ちになったのだが。


http://eiga.com/official/nightwatching/





人間失格

連日残業続きで場合によっては、帰ると日を越えていたりして、食事をして寝るだけの毎日。主体的仕事というより、受動的労働をしているので、度合いをすぎれば慣れがやってきて心地よくなってくるのだという事実の発見が不気味。もちろん創造的活動などは出来るわけもなく、ピアノも文字もここ数日触っていない。しかし創造的活動というのは労働に比べれば、案外に苦しいものであるのだということを再認識、何も考えずにひたすら労働にまみれていく生活はサイクルの中で永遠に静かだ。前に書いた散文に、習慣というピストルは優しく人を殺すことが出来ると書いたことがあるが、やさしく殺されていくなら多くの人にとって本望かもしれない。私は最近、感覚のない疲労について考えている。正確に言えば考えているというよりは、漠然と思っている。


最近、付き合いで舞台を何本も見たけれど、凡そどの舞台においても後ろ暗いなかで前向きで、舞台の中でしか完結しない歪んだ自己実現が舞台と自分との距離を果てしなく遠ざけているような気がした。どれもよく出来ていて大変に感心するのだけど、感心しても、感動することなく帰るのはこちらがわに問題があるのかよく分からない。卑屈の中に埋められたような気分になる。


「恥の多い生涯を送ってきました

自分には人間の生活というものが、見当つかないのです。」


これは太宰治の「人間失格」における、第一の手記の書き出しだ。中学の時、このタイトルに惹かれて購入した。それから、「人間失格」やジイドの「狭き門」、ヘッセの「車輪の下」なんかが青春を構築した。暗い気分のときはやけに明るくなる。「含羞」というものが裸の自分をよく現していると思う。よって自分は同じ含羞を持つ人間を、恥さらしという理由で憎み、持たない人間を恥知らずな人間として憎んでしまう。


「自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」というものを一度も実感したことがなく、堀木のような遊び友達は別として、いっさいの付き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして件名にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来でみかけてもぎょっとして、一瞬、めまいがするほどの深いな戦慄に襲われる有様で、人に好かれることは知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした(もっとも、自分は、世の中の人間だって、果たして、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています。」


よく人は透けてみえてぞっとするが、その背後に自分が透けて見えてぞっとする。

恐怖、含羞、無抵抗、それに妙なプライドの高さがのっていたのが青春時代だった。

日記を読み返すと、人を嫌悪する自分への嫌悪ばかりを書き綴りっていたので、全て捨てた。


「してその翌日も同じこと繰り返して、

昨日に異ならぬ慣例に従えばよい。

即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば

自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。

ゆくてを塞ぐ邪魔な石を

蟾蜍は廻って通る。

上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけたとき、自分はひとりでに顔をもえるぐらい赤くしました」

本当に蟾蜍は廻って通るだ・・・

本を読み返しながらいつの間にか朝まで眠っていた。


最後ですが、うちのメンバーのよしもとともしよとが現在突撃金魚に出演中です。等身大の少女の体当たりな人生への絶望とか変革への欲求とか、ある日の衝動とか、それに忠実であるとか、あがきっぷりを上手く描いています。主催のサリングさんの作品は、徐々に外に発光する形になっていてよい方向に進化しています。よかったら見に行ってやってください。今週末までです。


http://www.kinnngyo.com/

昔話の深層

河合隼雄が亡くなったのはついこの間のように思われるが、すでに半年以上たってしまった。月日の流れがはやくて驚く。またもや公演の台本を書く時期がやってきたと思ったら、すでに締め切り間近である。時間の流れがなんとも恐ろしい。


「昔話の深層」は河合隼雄1977年に刊行したもので、ユング心理学の観点からグリム童話を紐解いている。そもそもユングは精神病患者の語る像に、神話や民話に共通項の多いことに注目した。狂人の抱くイメージと、昔話に共通の姿があるというのは非常に不思議である。



ユング心理学には「型」という概念が存在する。世界中の昔話にはその「型」が存在すると河合は述べる。人間の無意識を個人的無意識と普遍的無意識に分けて考えると、普遍的無意識の深層は人類に共通の普遍性を持っているのである。


河合は我が国のユング心理学第一人者である、そこで彼はこの本を通じて、昔話に見るユングの言うところの「型」(深層)を解説している。ここに、いくつかの例をあげてみよう。


「魂」

心理療法を受けている人が絵や物語を創作することがよくある。彼らは「無意識」の中でその内的要請に従って創作するのである。我々はすでに文明が進化し、土壌から切り離されされた意識を持っている。しかしそれは土壌から切り離されているがゆえ生命力に飢えたものである。昔話は無意識の世界への退行させる手段である。昔話はある個人が原型的な体験をした時にそれを直接的に伝えようとしたのが始まりであり、昔話を読む時、我々は表層的に失われた原体験を獲得することが出来るのである。もっと言えば、昔話は心の構造の反映としてみることが出来るともいえる。

その「原型」についていくつか取り上げてみる


「グレートマザー(太母)」

例えば「トルーデさん」に見られるように、昔話はすざまじい。それは現代人がつとめて忘れ去ろうとしている、人生における死の戦慄を体験させるものである。昔話は魔女や恐怖体験を通して、超越したものの存在を示す。それは大地と結びついた大いなるものの存在であり、それを実感したものが大人になっていくという死と再生のプロセスを記している。


「自立」

「ヘンゼルとグレーテル」で魔女がグレーテルに殺されるように、昔話では母親を思わすものを殺ししてしまう。それは成長が母なるものの死とともに成されるものであることを示している。個人の成長は常に死と再生の繰り返しである


「怠けと創造」

昔話では怠け者が成功するという例がしばしば出てくる。行き詰った精神病者は退行現象を体験し、意識から無意識の世界へ流れ出す。そして呆けた状態の患者がその頂点に達したとき、エネルギーの反転を生み出し、新しい創造が開示されることがある。退行が創造的な場合は、多くの創造活動がこれにあてはまるとユングは指摘している。


「影の自覚」

「ヘンゼルとグレーテル」の兄弟は実は一人の人格を現している。心の中の相互補完は二人よりもむしろ一人の心におこるのである。我々は皆、個人的にも普遍的にも別の側面(影)を背負って生きるのである。


「眠りと目覚め」

眠れる森の美女では、姫が眠りと目覚めを体験する。成長のための試練があり、罰や死を経て我々は目覚めるという過程を通じて生きている。


「トリックスター」

昔話にはしばしばトリックスターが登場する。我々は心の中にトリックスターなるものを持っている。それは物語をかき回すものであり、葛藤、破壊、お調子者、介助者、などの意味を含んでいる。


「父性原理」

切断の機能を持ち、秩序を保つものとして物語は、王や父という形で父性原理を登場させる。それは母なるものとバランスを保ちながら世界を構築する


その他にもこの本は、「アニマ」「アニムス」などのタイプが昔話の中に見られることが述べられている。我々にとって意識と無意識は生命の両輪である。我々は今こそ無意識的普遍体験を呼び覚ます昔話を求めているのかもしれない。

平城遷都1300年シンポジウム

久々に劇団のメンバーに会った。やはり、彼らといるととても落ち着く。普段の日常では全く関係のない妄想的な部分を共有できる仲間を持つというのはとても不思議なことだ。もちろん完全に共有することは出来ないのだが、少なくとも妄念的な部分を共有する必要が生じるというのは特別なことに感じる。


このほど正剛先生の講演会を拝聴に奈良まで赴いたのだが、ふと先生の能舞台の話を思い出した。


講演で先生はまずは能舞台の上にあがり、能舞台の「橋掛かり」の意味についてお話になった。能舞台というのは一般の人は橋掛かりを通ることが出来ない。というのは橋掛かりの向こうの揚幕の中、つまり鏡の間はこの世ではない人がいる場所である。たとえば幽霊とか、思い出の中の人とか、過去の人とか・・・橋掛かりの向こうはあちら側で舞台はこちら側なのである。日本のデュアルな(二重の)、それを象徴しているのである。演劇というのはこちら側とあちら側の交差点でなくてはいけない。演技そのものが持ってる二重性、舞台が持っている二重性、人間が持っている二重性、そして舞台にあがる人々はあちら側を共有しながら演じるわけだ。ふとこのようにメンバーで集まることが不思議な特性を持っていることに今更ながら思い当たる。


ところで講演の方だが、能舞台の話を前置きとして先生は遷都1300年に際して、「都市とネットワーク」のお題でお話された。平城遷都1300年記念シンポジウムにゲストとして招かれた正剛先生はやはり文句なしに優雅であらせられる。奈良時代というのはわずか70年の都であるが、この時代は他にもビザンチンであるとか、長安であるとか非常に重要な都市文化が興った時代であるというところからお話がはじまり、まずはグローバリゼーションの話をなさる。


日本というのは古来、縄文、弥生時代において文字をもたなかった。日本文化は驚くべきことに口語しか持たなかったのだ。ただし唐から漢字の文化がやってきたとき、日本人は決してそれをそのままつかわず、大和言葉に当てはめて独自の万葉ことばを生み出した。今日の日本人はグローバルという名のもとに、輸入文化を何でも直接入れてしまう。奈良時代のグローバリゼーションのあり方、輸入文化を独自の文化により解釈、変容して我が国に適応させるということを再び思い出すべきである。


また奈良時代というのは非常にネットワークシステムの優れた時代であった。そして強力なリーダーシップというものが存在した。藤原一族をはじめとする有能な政治リーダー、言わずと知れた鑑真、行基などの草の根ネットワーク、そして律令政治、税制、租庸調など優れた政策がなされた。加えて奈良は女性の活躍した時代でもあった、光明天皇を筆頭に女帝が多く君臨し、歌人として女性が名を残している。奈良はネットワークシステムを再び考え、その際に女性のパワーというものに注目するべきである。


そしてこの時代、華厳というものを忘れてはいけない。なんとも複雑で深遠な体系を持つ華厳密教であるが、壮大であるが、要に応じた仏があり、複雑なものを絡めながら実質へ落とし込んでいく。奈良時代はこの華厳に注目すべきである。




と概略するとこのような話で太極拳の話やら、インドの神々の話から、さきほどの能舞台の話やら様々なまさに先生の話が曼荼羅。奈良の知事やら市長やらはひたすら両手話で絶賛の上、感嘆の嵐。とはいえ、膨大な知識を縦断する先生の話に訳がわからずうとうとする観客もちらほら。まぁ、お話を聞けるほどにはなりたいものだと溜め息。折角なので興福寺に立ち寄り、阿修羅像や山田時の仏頭、千手観音などを拝んで帰りました。






Paging Navigation

Navigations, etc.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。