刺繍草紙

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大人もぞっとする初版グリム童話

~ずっと隠されてきた残酷、性愛、狂気、戦慄の世界~


グリム童話研究会代表 由良弥生(1999)


グリム兄弟は18世紀後半の生まれ、民間伝承、言語学の研究者であった。グリムは取材や文献を通して莫大なドイツの民話を収集したわけであるが、彼らは最初の初版から7回の改作をしている。回を重ねるごとに残酷な内容は省かれ、品のあるものに変わっていったわけであるが、これはその初版に注目して初版を訳したものである。


『ヘンゼルとグレーテル』

両親に森に捨てられたヘンゼルとグレーテルは森の中でお菓子の家を発見する。それは魔女が住む家だった。グレーテルはヘンデルを食べようとして兄を肥らす魔女の隙を見て、魔女を釜に突っ込む。その瞬間、なぜか魔女に母の顔を見る。グレーテルは火かき棒で魔女を釜に突っ込み、笑いながら殺してしまう。家に帰ると母はいなくなっている。グレーテルは母を飢えた父が食べたのではないかとかんぐる。


『灰かぶり』(シンデレラ)

二人の姉はナイフで踵や指を切り落とし、血だらけになりながら靴を履く。実は灰かぶりは邪眼を持っていて、屋敷を出るやいなや、その眼が力を持つ。その眼に見られた姉達はお互いの目に指を入れてくりぬいてしまう。


『赤ずきん』

赤ずきんは貴族の女がかぶっていた真っ赤な帽子を欲する。赤ずきんは狼に命じられるまま服を一枚一枚脱ぎ、狼に添い寝する。赤ずきんは憎憎しげに狼の腹に石をつめる。そして、最後に狼が自分を嫌っていたのかしらと嘆くのだった。



次の作品はグリム童話を取り上げる予定である。下調べする中で単純なストーリーが複雑多岐な要素を含んだものとして認識され面白い。久々の原作もの、原作をやるからの意味をきちんと出したいものだ。




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シャネル・スタイル

「見つけるのは失うため」

「仮装するのは愛らしい、仮装させられるのは悲しいことだ」

「才気を持っていながら、思慮のない人間を恐れなければならない。我々はそういう人間に囲まれている」

(シャネル・スタイルより)


こうなりたいと思うときは、高校時代の恩師か、師匠か、もしくは憧れの女性という意味でソンタグやシャネルを思う。もちろん実際に会った事はないので、それは男性が信長や秀吉に憧れるのと同じ程度の虚像崇拝にすぎないのだが。


ガブリエル・ココ・シャネル

彼女がおこしたファッションへの革命に賛嘆する。孤児院に生まれて、慎ましい暮らしと厳格な暮らしに裏づけられた、物事を成し遂げるに相応しい人格。その洗練された美しさで男性を虜にし、男性は更にシャネルを優雅にする教育を施した。カンボン通りに帽子店をオープンし、徐々にその活動を広げた。

それまで喪服でしか着なかった「惨めな黒」に注目し、ブラックの、その美を広めた。

ジャージ-素材やフェイクファー、イミテーション宝石を大ブレイクさせたイミテーションを一級品に仕立て上げるセンス。スポーツウェアを考案し、女性にパンツスーツの美しさを教えた。シャネルは女性の美しさそのものあり様までも変えてしまったのだ。そして、あまりにも有名すぎる香水、シャネルNO.5、プリーツスカート、パンタロン、ショートヘア-、パールのネックレス、セーラーカラードレス・・・・。


シャネルが地位を得たあとは、様々な芸術家を支援し、ディアギレフの公演をまるまる買い取るぐらいの巨額出資をしたり、ストラヴィンスキー、コクトー、ピカソ、ヴィスコンティ、ジャン・ルノアールらと親交を持った。コクトーの恋人にして若き作家ラディゲが亡くなった時は、その死を悼んでシャネルが美しいまでの真っ白な葬儀を取り仕切ったという。




「エレガンスとは新しいドレスを着ることではない、人はエレガントだからエレガンスなのだ」

「装いは知恵であり、美は武器である。そして謙虚さはエレガンスである」










KAVCチャレンジシアター

久々に観劇。ユキの御託舞い散る新開地、KAVCへ。今年のチャレンジシアターのテーマは「音楽」だそうで、むしろ我々のためにある企画!というところなのだが・・・本日は以前振り付けをしていただいたことのある川崎さんの振り付けが久々に見たくて疎遠にしておりましたが、久々こっそり見にまいりました。


3団体によるオムニバスで1団体めは生バンド(アコーディオン、ドラムス、コンピューター)と人形芝居のコラボレート。浄瑠璃的な期待を持ってみたのだが、ただのぬいぐるみ芝居・・・台本構成がよく、人形もスマートに使えていたものの、バンドとのコラボは殆ど参考にならず、やはりこの手のコラボで。二作目の「BISCO」というカンパニーは昔に何度か見ていて、腕をあげた感じで良かった。


最後の「半熟目玉盲点観光ガイド」、現代音楽とダンスパフォーマンスの融合、バンドはサンプラーにはじまり、なわとび、レコーダー、このあたりまではパフォーマンス音楽グループの定番としても・・・自転車空気入れ、果てはフライパン返しまで出てくる始末・・・こういうバンドってなぜこんな不思議なものたちを使うのかしら・・・・以前は演奏して飛び跳ねながら骸骨のダッチワイフ的なものを振り回すびっくり仰天な音楽パフォーマーや寝ながらシンセを弾く不届きものを見たことがあったが・・・・。もはや誰もどれだけ奇抜なものの音を出すかに終始してそうだ・・・。


視点が分散されてしまうため思わずバンドの方に注目・・・・パフォーマンスも絵的で古代ギリシャやローマを思い起こすオリエンタリズムに戦や旅、妄動や蜃気楼を思わす感じで絵を描いていた川崎さんらしい振り付けで、以前より身体がしまっておられた。昔、私らしいからといって「ざくろの色」という珍しい映画をお借りしたことがある。

それはフェリーニの実験映画みたいな美しい作品で、今でもいくつかのシーンを覚えている。「金の鵞鳥」という作品に関わっていただいて、私の舞台を「コクトーを思い出しますね」という最大級の言葉を頂いたにも関わらず、その頃不勉強だった私は「コクトー?」と問いただし、今思うと顔から火が出そうな無知さ加減だ・・・


面白いという確証がなかったので一人で行ったのですが、行ったら同じく活動しておられる女性演出家の方に会い、一緒に観ました。久々に昔からの人たちが頑張っているのを見て、そのことがとても励みになった。そういう身内意識で眺めてはいけないのだが、心弱い昨今のこと、たまにはこういう心情も許していただきたいと、我をいい含む。


寒空、二月。

『Tokyo Ghetto』

先ほどまで西堂行人先生による、前衛演劇講座の飲み会にいた。今期、講座の締めくくりは清水信臣率いる「解体社」の『Tokyo Ghetto』の映像鑑賞。東京がゲットー(第二次世界大戦におけるユダヤ人の強制居住地域の呼び名)と化す姿を俳優の強靭な身体を通じて描く。


舞台ではオープニングから数十分に及んで男性俳優がひたすら女優の肩や膝をリズミカルに殴打。子気味よい打撲音がパシン・パシンと響く中で、観客は非常に心地の悪い思いを味わい、あるいは嫌悪感を味わう。そして次第に慣れという緩和が訪れたり、各々(殆どの観客はそうであろうと推測されるが)マイナスの感情を高ぶらせながら観劇する。表現は形式的、抽象的で、具体的なDVをリアルに表現するというものではない。しかし実際、殴打されている女優の肌は次第に赤くなり、鬱血し、痛ましい内出血の痕が浮かび上がってくる。


ビデオ上演が終了した後、この舞台を巡って賛否とは違った視点から多くの意見が交わされた。暴力における習慣化の問題から、表現そのものへの提言、例えば舞台における虚実の問題などにも議論が及ぶ。観客席におこる社会の構図それこそがこの作品の意図であるという意見。作品を作る要因となった意図の文脈まで示唆されないと、意味がないという意見。


かくいう私は、全く意見が述べられず。そも演劇とは何かの前提が揺らぐため、前提から議論しなければならないのだが、自分にとって演劇のゆるぎなくあらねばならぬ理想に意義を唱える作風である故に、拒絶反応があった。主要な反論としては舞台に美的構造が見られないということで、社会的主張であれ、風刺であれ、笑いであれ、それが美的構造を逃れるものであればそれは表現として成立しないという考えである。例えばピカソの「ゲルニカ」も恐怖感の裏側に美的構造を宿し、作品を風刺画ではなく世紀の芸術作品たらしめているわけだ。ムンクやフリーダ・カーロ、ゴッホ、ゴヤにもあてはまるだろう。


美的構造がなければ、本質的な物事における二面性という文学的な意義ももたらされない。もっとも西堂先生によれば、それがそもそもこの解体社の狙いであると言われれば、なるほどとしか言えなくなるのだが。


このような考えは直接、表現における認識の乏しさを現すのだろうか。釈然とはしない、またその釈然としなさを明らかに狙ったという意味で、狙いが的を得た作品を見た。


ちなみに解体社という集団は、海外で高く評価され毎年のようにどこかの国で招聘を受けているということだが、そのあまりにも直接的な暴力表現に日本の劇評家陣営からはいまだに無視の状態が続いているということ。関西で見られる日は遠そうだ。






セールスマンの死

早川書房から「演劇文庫」とやらが昨年出版されたらしい・・・ということは聞き及んでいたが、年始に本屋に行くと演劇のコーナーにその演劇文庫を発見。華々しく1刊を飾っていたのは「セールスマンの死」(1949)、アーサー・ミラーだった。私としては同世代に活躍したアメリカのテネシー・ウィリアムズの方が好みにあうのだが、だからといってこの作品の素晴らしさに対してケチをつけれるものではない。


舞台はウィリー・ローマンというセールスマンの家である。ウィリーはセールスマンとして長きに渡り働き、きちんとしたマイホームに、電気冷蔵庫と自動車を持ち、気立てのよいワイフ、優秀な息子を二人、金を儲け、成功し、黄金色の人生を送った・・・はずだった・・・・。ところが今、ウィリーはセールスマンとして役立たずのレッテルを貼られ、ローンで買った扇風機は時折故障を要し、金は入れてはなくなった。二人の息子は偉大で優秀というには程遠い上、親孝行ではない軽薄な息子たちになった。アメリカン・ドリームに向けて走ったはずのウイリーは知らず使い捨てられた駒・・・・敗者になっていたのだった。ウイリーは自分が敗者であることを認めたくはない、まだ夢を見れるに違いない僅かな材料にしがみついて、それが木っ端微塵に砕かれるたび、ウイリーは打ちのめされていった。


私もこのタイプの構造を借りて戯曲を書いたことがあるが、ある一定の限られた時間(ウイリーが夜帰ってきて、朝死ぬまで)の中で、一定の場所(ウイリーの家から出ない)。ただし、フラッシュバックという方法を使いながら、過去と幻想を往来している。構造も素晴らしいが時の時代背景を映し出し病めるアメリカを表現した。


チャーリー  

誰もこの人を責めるわけにはいかない。わかっていないんだよ、きみは。ウイリーはセールスマンだった。セールスマンには、基盤というものがないのだ。ナットでボルトを締めれるわけじゃないし、法律に通じているわけじゃないし、薬も作れない。口をぴかぴかに磨き、にこにこ笑いながら、はるか向こうの青空に、ふわふわ浮いている人間なのだ。だから、笑いかけても、笑い返してもらえないとなると、さあ大変―地震と同じだね。それに、帽子に染みを二、三ヶ所もつけていたら、もうおしまい。だれだってこの人を責めるわけにはいかない。セールスマンは夢に生きるものなのだ。その夢は受け持ち区域にあるのだ。



午後の曳航


三島由紀夫が一等好きだ。ほの暗い闇からなまめいた赤色が挿すようなその気だるく、逞しい憂愁。死と恍惚・・・

良人に死別された未亡人、房子は港近くで一級の舶来洋品を扱うオーナーであり、登という息子がいる。港に船が寄港した際、房子は兼ねてから船を見学したいとねだっていた息子の登を連れて船内の案内を乞う。その時、船を案内した男が塚崎竜二であった。

そんなある日、登は自室の箪笥の奥から光が差し込んでいるのに気付き、そこから母の部屋に通じる覗き穴を発見する。そして登は覗き穴から母と塚崎の情事を垣間見てしまう。

登は普段学校で首領という大人びた少年を筆頭とする優秀なチームを組んでいた。その少年たちは定期的に大人達に関する審議を開き、審判や判決をくだす。また「感情のない訓練」をしたり、実験的に動物を殺しそこから得られる感慨を味わったりする実験に興じている。さて、登は海に対する寛容と憧れから塚崎に敬意を評し、仲間に自慢したいと感じていたのであるが。しかし、仲間と一緒に登に対し、塚崎は母との一件にたいする後ろ暗さから登に媚びた笑顔を浮かべる。

塚崎に出航の日は近づき、彼は再び航海に出る。冬なり再び寄航した塚崎は母の元に戻り、ついにこのまま母と共に暮らすことを決意する。一方で登は輝かしい港のマドロスであった竜二が品のいいセェターを着た父親になって堕落していく様に許しがたい罪科を感じる。

その頃、登と首領を筆頭とする少年達は世界の虚無を埋めるために、死という購いが必要だと考えていた。ある日、登は件の引き出しから母の情事を覗いていたのであるが、それが見つかり、父になった塚崎に諭される。登はその塚崎の父親然とした醜い態度に許しがたい侮辱を感じ、首領に告発する。そうして少年達の虚無を埋めるための、死の必然性・・・・死刑執行の必要性はかつて光り輝いていたが今は堕落してしまった男、塚崎竜二にあてられたのだった。

―灼けるような憂愁と倦怠に沸き立ち、剥鷹と鸚鵡にあふれ、そしてどこにも椰子!帝王椰子。孔雀椰子。死が海の輝きの中から、入道雲のようにひろがり押し寄せてきていた。彼はもはや自分にとって永久に機会の失われた、荘厳な、万人の目の前の、壮麗無比な死を恍惚として夢見た。世界がそもそも、このような光輝にあふれた死のために準備されていたものならば、世界は同時に、そのために滅んでもふしぎはない。

血のように生あたたかい環礁のなかの湖。真鍮の喇叭の響きのように鳴り渡る熱帯の太陽。五色の海。鮫・・・

竜二はもう少しのところで後悔しそうになっていた

奇岩城

小学生の頃、「理想のタイプは?」なんて聞かれると、そも全く精神年齢の低かった自分は男の子などには全く興味が無く、その頃に毎日図書室に行っては借りていた「アルセーヌ・ルパン」と答えた。ちなみにモーリス・ルブランのルパンにぞっこんな思春期を経たため、モンキー・パンチのルパン三世は大野雄二の音楽を除いて全く受け入れられない。むしろ、ルパン3世はあまりにも世間に横行しているため、イメージがつきすぎ、ルパンを貶めているとまで考え、3世憎し・・である。


アルセーヌ・ルパンはそもそも怪盗紳士なのである。ジェントルマンで、淑女を慮り、弱きを愛し、一流の美術品を盗む。その手口は鮮やかで、必ずアルセーヌ・ルパンとサインの入った予告状を送り、人を食った方法でまんまと盗み出し、その予告といい、手並みといい、引き際といい、人の食い方といい、実に紳士的でかっこいいのである。


ルパンは、不遇の幼少期を送り、母を助けるため盗みを働くようになった。怪盗紳士となってからは、まっとうな令嬢に恋するものの怪盗という職業ゆえに身を引き、涙を呑む。可愛そうな人を見るとほってはおけない優しさで、ライバル(ガにマール警部、シャーロックホームズ)にも花を贈る余裕っぷり。かといって茶目っ気たっぷりな性格なのだ。なんといってもルパンにぞっこんになるのは、彼は表面上は悪辣な怪盗紳士なのだが、本当は傷だらけだということろである。


そんなルパンの最高傑作はやはり「奇岩城」である。この話はイジドール・ボートルレという天才高校生との対決である。ある日、ジェーブル伯爵低で殺人事件がおこったのを機にボートルレはルパンと対決することになる。ボートルレは盗まれたものは何もないという奇妙な現場で、美術品や城の修道院跡にある彫像が全てニセモノであることを見破り、盗賊の首領をアルセーヌ・ルパンと明言。現在も屋敷のどこかに隠れていると断定する。レーモンド嬢の発砲により負傷したルパンは推理どおり修道院跡の地下に隠れていたのであるが、令嬢を誘拐して脱出をし、自分が死んだと見せかけるため代わりの死体を用意する。一方ボートルレはルパンが成した窃盗の全貌を詳らかにし、加えて彼が生きていることも実証、ルパンが令嬢に恋をしていることすら暴露する。怒ったルパンはボートルレの父親を誘拐するがボートルレは暗号の書かれたメモを手がかりに、必死に推理と探索を続け、ついに父親と令嬢を発見する。ところが解読したと思った暗号は、もっと複雑なものであり、またもや有頂天になっていたボートルレを打ちのめす。なんと暗号は何世紀も前に書かれたもので、フランス王室の金庫とも言うべき宝が隠された秘密の暗号だったのだ。ボートルレはルパンが10日で見破ったという暗号を自分も解読したいと思う。こうしてルパンはその活動の根城まで追い詰められていくのである。そしてついにボートルレはルパンが世界中から蒐集した美術、調度品の数々を見ることになるのである。



「奇岩城」は何世紀にも渡りフランス王室に代々伝わる秘密の暗号いうスケールの大きさ加え、ルパンの危機が何度も訪ること、ボートルレという青年の無邪気なキャラクター、ガニマール、ホームズといったキャラクターの登場、またルパンの哀しい恋の話、幾つかの変装、間一髪の銃撃戦まで非常にドラマティックでダイナミックな話なのだ。ルパンをまだ読んだことがないという人がいればこれは一等お勧めである。


―一部抜粋

「笑った、笑った!」うれしそうにぴょんぴょん跳ねながらルパンは叫んだ。「いいかい、あんたに足りないのはね、ぼうや、笑顔なのさ。年の割りに真面目すぎるんだよ・・・あんたはとっても感じがいいし、気取ってないところはすごくいかすんだけど・・・そうさ笑顔を見せないんだ」



くっすん大黒

公演終了開放ムードと共に塞ぎこんでブログを放置・・・、,茜嬢と藤姫のブログが更新されていくのをダヤンのごとき眇めに眺めながら、居直りを決め込むこと数日。ついに尻を叩かれ更新を決意。


さてバンドの方であるが、舞台関係者の結婚パーティーにおよばれしたため、「白色テロル」は本日、最終リハ。最近はシンセの醍醐味というものに興味を示し、演奏技術の向上から切り替わって苦手な機械いじりというものに取り組んでいるのだが、これがまた四苦八苦。演奏の方は、リズム練の甲斐あってか、皆の呼吸がぴったりとはまり、グルーブ感がでてきている。


バンドといえば、自分は文学でも音楽性・・・を感じさせるものが好きで、デュラス、サガン、春樹、龍、三島、ランボー、クンデラ、全て何かの詩や音を思わせる。今回の芥川賞受賞者も歌手だということだが、最近の芥川賞受賞者なますます音楽化している傾向にあると思われる。というわけで今回はミュージシャンでもある町田康さんの「くっすん大黒」について書く。


「くっすん大黒」は名の通り、大黒さんにまつわる話だ。主人公(自分)はある日突然、思い立って会社を辞めブラブラすることを決意する。そうして、毎日酒を飲みながら、ぶらぶらしていたのであるが。ある日気付けば自分の顔は酒で変形し醜男になり、妻は出て行ってしまい、金は底をついている。そんな時、怠け者の自分のベット脇にいつも転がっている大黒の置物の存在を認めるのである。その大黒はそもそも構造が不安定ですぐに倒れてしまうので立て直してやってもすぐに転倒してしまうのである。自分はなにやら、そのいまいましい大黒を捨てようと試みるが上手くいかず、結局友人の菊池にやることにした。菊池というのは同じくブラブラ仲間なのであるが、その菊池も金に困っており、結局二人でバイトをすることになった。ところがそのバイトというもの破天荒なおばさんが奇行に興じる洋服店だったり、宗教がらみの変なドキュメンタリー番組の録画であったり・・・



町田はそもバンドマンであり、その後、作家として名をなした。先日布袋さんに殴られたとかで、大事件になったところだが、なんともアウトローな雰囲気は序盤から炸裂している。


「もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの?あきまへんの?ほんまに?一杯だけ。あきまへんの?ええわい。飲ましていらんわい。飲ますな。飲ますなよ。そのかわり、ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続けてやる。君がとってもウイスキー。ジーンときちゃうわ。・・・・・」


と、最初からくるのだからたまらない。しかも主人公の(自分)はつげ義春に出て行きそうな覇気のない、なまくら男。無精を愛するがゆえに、ベットから降りない対策を抗じ、手の届く範囲に全ての必要物を配置する。金はないのだが、どうにも働きたくはない。強い精神を持ってアナーキーを標榜するということは全くなく、流されるまま、ただダラダラしている。様々な不条理厄災がおこったら、大黒のようにひょろんと倒れてしまうのである。というより倒れているのである。


初期谷崎にも通じよう、ナマクラ美学について一定の喜びを見出せる私としては、いたるところ共感を持って読みすすめる。むしろ安心感すらある。なんといってもこの不思議な文体というより、大阪弁口語体が奇妙な世界へいざなってくれる。登場人物が不条理でまたそれを受け入れていく寛容的な気分も大阪弁と相俟って良いのである。この本はそれこそ30分ぐらいで読める。気になればこれ、一読。







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