刺繍草紙

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フローレンスの庭

昨日はうちのプリンセス藤とAI・HALLまで足を伸ばして関西の小劇場では大御所、太陽族の岩崎プロデュースの舞台「フローレンスの庭」を見に行った。表題通り、かのフローレンス・ナイチンゲールに所以する舞台で看護士の卵たちの奮闘を描く作品だ。戯曲が群像劇としてとてもよく書けていて、緻密さと伸びやかさを馳せ持った演出で素敵な作品だった。


藤も会場出るや否や「面白かったですね~」と賞賛。その後、久々に水入らずでお食事に行き、舞台の感想など拝聴した。女優というのは「香ばしい」もので、特にうちの女優陣はキレイどころ揃いなので、稽古場はなんてことはないのだけど、プライベートで二人でいるとなんとなく「はにかむ」ようなくすぐったい緊張感との同居にさらされる。私は演出をするにあたり何のポリシーもなく、むしろ受容し、変革し、流動すべきと考えているのだけれど、一つだけ「女優をいかに美しくみせるかが演出の仕事」ということだけは首尾一貫して間違いのない方針だと思ってきた。岩崎さんの演出もいわゆる超越的な美というのではないけれども、普通に暮らす人々が持っている「白くすべっこい部分」にきちんと光をあてていた。「美」が何かについては千差万別で、藤とも話していたようにうちとは畑違いなのだけれど、何かに「美」を見出すというのが表現でそれは同じだ。「力」だったり「弱さ」だったり「神秘」とか「粋」とか「ダサさ」「不可解」「トリップ」だったり・・・


ところでいよいよライブ!演劇的要素を織り交ぜた5曲編成のエレガンス・ロック・・・


M1 ペリカンの歌
M2 LIE
M3 ELEGANCE SECOND LOVER
M4 夢の花床
M5 狂った夜汽車

是非いらしてください。


12/2 ブッキング 
20:30~
\1800(\500別途ドリンク)
FAN J twice (アメ村)

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自転車泥棒

ライブが近いので落ち着かなくて毎日イライラしている。一方で現実感がない・・・・。毎日僅かな時間を見つけては練習するが、いきなり流暢にひけるわけもなく、上手くなる実感もなく・・・これは工夫しかない!と思いながら、シンセの説明書と格闘していると脳みそから汁が垂れてきそうだ。なかなかに手ごわいお友達だ。そろそろ「とにかく、頑張ろう!」みたいなショウモない精神論に行き着きそうだ。


映画「自転車泥棒」を紹介しようと思う。この映画を見終わった時、この映画は一言で語れるなぁと思ったが、その丁度いい言葉が思い浮かばなかった。その一言を発見したらこのブログに書こうと思ったのだが、今日の紅茶を淹れて、カップから取り出したティーパックを流しに捨てた瞬間に思い浮かんだ。この映画は一言で言うと「いたたまれない」映画だ。YAHOO辞書で「いたたまれない」を検索すると『[連語]それ以上その場所にとどまっていられない。また、それ以上がまんできない。いたたまらない』とあった、まさしくぴったりの表現。


伊ネオ・レアリスモ代表作の一つ。敗戦後、荒廃し景気も秩序も最悪な状況の街で、少年の父親は1年半ぶりの仕事にありついた。ローマの街にポスターを貼る役所の仕事だ。ただし条件が一つある。自転車を持っていること。でも、自転車は生活のために質草に・・・少年の母親は「これは要らないわ」と言って家中のシーツを剥がして質に入れ、自転車を取り戻す。喜びの中出勤した父親だったが、ポスターを貼っている最中に自転車は盗まれてしまう。大声をあげながら泥棒を追いかけるが泥棒仲間に嘘を教えられ逃げられてしまう。途方に暮れ友人に相談すると、盗難自転車は分解され市に出されるという。父親と少年は市でギアやらペダルやらチューブやらを検分するが分かるはずもない・・・、泥棒と取引している老人を偶然に発見して後をつける。が・・・協会の福祉にありつく貧しい老人はしらばっくれた挙句、逃げてしまう。少年はくたびれ果て、父親は少年を慰めるためピザでも食べようとレストランに入るが、裕福な少年が豪華な食事をとるレストランではより惨めさが増すばかりだった。偶然、泥棒をした若者を見つけるが若者も同じく最下層の人間で、証拠をおさえることは出来ず途方に暮れる。そんな時、父親の目に一台の自転車が・・・玄関に置きっぱなしにされている自転車を見て父親は子供を先に帰す。その自転車に忍び寄る父親だったが・・・


父親も子供も素人。ロケはローマ市内・・・時代の混沌をそのままに映し出したヴィットリオ・デ・シーカの名作。いたたまれない混沌ひとつ・・といった映画。ときおり生活に演技を発見し、演技に真実を発見する。これは何なのでしょう。




マドンナ

レトルト内閣は「楽園狂想曲」を終えて、久々に1日限りのイベント「楽園ライブ」のための稽古にかかっている。限定された時間内での作品創作、挑戦とエンターテインメントへの原点を見つめるパフォーマンスと、克己といろんな意味を込めてイベントを企画した。ある程度、俳優のレベルもあがり、今まで作っていた一定のレベルを越えたいと感じている時期だけに、イマジネーションを共有し、トップクラスに倣いながら独創作品を作ってく必要性を感じている。


良かれ悪かれ、今ある最大限の力を出し尽くして「楽園狂想曲」を作った今では、それを越えるために劇団の稽古方法や、作品創作に発想の転換や、更なる特化が必要だ。昨日の稽古では、新たなバンドと演劇との融合パフォーマンスというイベントのため、マドンナのDVDを稽古場で見た。


35ドル握りしめて、単身ニューヨークへ、この街で一番大きなところへ行ってとタクシーの運転手に告げて、タイムズスクエアに降り立ったのはあまりに有名な話。ドーナツ屋でバイトをしながら屋根無し暮らしで、長い下積み生活の後、世界の頂点に上り詰めた国際的スター、マドンナ。幼い頃から数々のダンスを拾得し、クラブ・ミュージックの到来と共に力強いフロワビートを聴かせるダンス・パフォーマンスと張りのあるSEXYな歌声ででスターダムにのしあがった。野心と情熱と反骨・・・妥協のないステージ・パフォーマンスは圧巻。映画の中のインタビューで彼女は自身のパフォーマンスについて「音楽を演劇的に提供する」と語り、私は人々を「精神の旅へ誘いたい」と話す。


彼女に注目するきっかけは好きな画家の一人、フリーダ・カーロの絵画だった。自身を拘束し、刃物を刺し、血を流し、身体が分解し、鎮痛に耐えるといった絵を描く激情の女性画家、フリーダ・カーロ。マドンナはそのフリーダの絵を居間に飾り、訪れた客のうちフリーダの絵に全く反応しない客は自分にとって用のない人間だと考えている。そのマドンナのエピソードを知って、はじめてこの一人の国際スターの中に強烈なアイロニーや暗い叫びが渦巻いていることを知った。


優れたダンサーでもシンガーでもなく、ただ「私は人々の目を覚まさせてやりたい」のだと語る彼女の意識は、ロックや演劇やアンダーグラウンドから発せられる、芸術と悲鳴ともいえないような表現に通じていると思う。あこがれるのは、マドンナの地位や栄光じゃなくて、そんなものに甘んじない暗い閃光が強烈に湧き上がってみえるパフォーマンスだからだ。



「書割のシェイクスピア」

師匠の誕生日はルドンの画集にした。去年は「マン・レイ」のキキの裸だったように記憶している。お誕生日をすっかり失念して訪ねて行った時、たまたま土産にと手に持っていたカードに言葉を添えてさしあげたような失態だったので、今年こそはと思って本屋をうろつきモローか澁澤か迷った挙句、どちらもお持ちかもしれないと懸念して、少しマイナー路線のルドンにした


オディロン・ルドンは印象派が興隆した時代と同世代の画家だけれども、一風変わったどちらかというと象徴主義や世紀末芸術に与されるような絵を描いた。幻想的で「魔」とも「夢」とも「美」ともなんともみたいな画風が好きで、特にルドンの描く花の絵は魅せられる。


銀幕遊学◎レプリカントの作品は「魔」とも「夢」とも「美」とも、といった作品だ。ルドンの絵から少しメルヘンがかった感じを抜いたようなイメージこのほどISTで上演された「書割のシェイクスピア城」も良かった。
シェイクスピア劇がなされる舞台裏で衣裏方の裳係や、小道具がかりがこぞって俳優を奪い合い、演技ごっこを繰り広げる。。「俳優修行」をもじったシーンとかで、演じるものへの嘲笑が随所ある。


ジュネみたいな大仰な台詞をまわしながら、陶酔し、現実を忘れ、現実の立場をすっかり転倒していく裏方達。寺山の「奴婢訓」等の構想を借りながら・・・だと思うが・・、主従転倒の関係性を俳優と演出家・作家の関係に置き換えて虚実を舞台と客席の関係性に置き換えながら、薄っぺらさの中にある真実や、現実の薄っぺらさといった相反感覚を描く。いつもながら、なんとなく泣けるのは狂おしい陶酔感覚とかそれを嘲る感覚やその中に正体不明の美が見えてしまうからかもしれない。


このほどなぜ舞台をやるのかよく考えるのだが・・よく考えりゃ、なんで人生を演じてるのかなんてほうがずっと不思議だ・・・何はともあれ、今回の作品も涙腺に及んだということだけで、何やら舞台というものにやられてしまうのだ

江戸文化における「粋」と「奢り」

松本嬢が「あんだんて」、プリンセス藤が「月のテーブル」というブログを始めた。負けてなるものか・・と意気込むもののネット不通トラブル・・・回復まで1ヶ月・・・辛い。ま、わたしはピアニシモな感じで生きてますから・・・

かくいうものの、ブログが更新されなくても一向に世間様のご迷惑ではないばかりか、むしろ「劇団員も読んでやしない(涙)」と拗ねられないだけ、みんなは有り難いぐらいのもので・・・この事実はもしや自分の人生にも適応される式ではなかろうか・・・などということはあんまり考えないようにしたい・・・。


ところでビックニュースと言えば、私は悲願、松岡正剛先生の講演を拝聴に言ってきた。誰!?という人は是非先生のご本を読んで、先生と出会わなかったこれまでの人生を歯軋りしてくやしがって欲しい。現に私はそうして悔しがった。松岡正剛先生はまさしく日本のレクサス(ちなみに公演の内容はラグジュアリー(贅)についてであった)、日本の知識という方なのだ。最近では私は先生の書かれる「千夜千冊」を毎日チェックし、ブログ「せいごうチャンネル」をこまめにクリックし、机の上には「フラジャイル」と「ルナティックス」をのせて、悪い頭が良くなるよう、戴いている。


オンタイムセーフを自負する私だが、当日は奇跡か!20分も前に到着、正剛先生がよく見える前の席に陣取る。先生は仕立ての良いグレイがかった黒スーツをきっちり着こなして登場、思っていた通り、品があって、シックで、ちょっと可愛らしい!


演目はラグジュアリーにおける「粋と奢り」。平安朝において 「みやび」「ひなび」ときっぱりと分かれていた感覚は武家政治になり「あはれ」「あっぱれ」として倒錯するものとなる。例えば少年の死は「あはれ」であるものの武家政治においては「あっぱれ」となる。そのウラハラな感覚は秀吉の時代に個人の中に同居するものとして存在するようになる。侘び寂びの茶室を金箔で覆った北山の茶会がその例である。慶長文化においてその感覚は特に様々な例をおびはじめる。 吉原の太鼓持ちに身をおとしながら、優れた絵をかき続けた絵師、英一蝶や「風神雷神」屏風の後ろに「秋草」という図柄を挑んだ、琳派の酒井抱一、「粋」を超えてついに「やつし」という感覚に及んだ異端派哲学者 九鬼週造を例にあげながら、日本における非常に危うい美的感覚をレクサスとして説明。


熱演で予定時間を20分軽くオーバーするものの、聞くこちらも非常に吸い込まれるような熱のこもった話口調と分かりやすい説明にうっとり!先生の挙動については話足りないが、アホなファンをのさばらせると先生に迷惑がかかるのでやめておくけれども。更にファンになりました。


というわけで新ブログ「月のテーブル」と「あんだんて」も読んでやってくださいまし。



CICAGO

こんな芝居がかった火曜日に

演技者よ

それはあなたのことです


花をお食べなさい

SICK ROSE 

SICK ROSE

羞恥に紅顔し、深く首をうな垂れたあいつに

報いておやんなさい


DESTROY CICAGO

巨大な小鳥の首をいただいた都市

切り口から血脈のアヴェニュー

かの死んだ目はお星さんです

今はなき光かも知れぬお星さんです


あれを見ながら

血なまこに

もしくはうっとりと

もしくはぐったりと


芝居がかった火曜日です

派手におやんなさい

豈、嘲笑注ぐ.

ましますなら神よ

胸掻き毟って




御唄

かなしみのようなものばかり拾っては

つまらないよと 口笛 

ひゅうるひゅる


こどく着流し

ひゅうるひゅる

腰紐に敗れた心臓 結わえぇぇぇぇた


そうしてあたしは

一度っきり

キリリとくちびるかみました

Paging Navigation

Navigations, etc.

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