刺繍草紙

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白熱灯

ビルに切り取られた空だか

空に切り取られたビルだか

そんなことは知らない


ネアン


黄色い裸体が地球に転がって


電気屋さんで、白熱灯一つ買いました。


ねえ、おかあさん 本当にこれでよかったのでしょうか?


わたくしは家のあかりを失いつつあります






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バナナフィッシュにうってつけの日

ユダヤ人だったサリンジャー

名門高校を成績不良で中退したサリンジャー


「ライ麦畑でつかまえて」で、

何が望みかって聞かれた、青年ホールデン・コールフィールドは


「ライ麦畑で遊んでいる子が、崖から落ちそうになるのを受け止めてやる人になりたい」

と答える。

この小説が毎年50万部売れ続ける、サリンジャー


ノルマンディー上陸作戦に参加し、精神を病み軍の病院に収容された兵士、サリンジャー。

今はニューハンプシャーで2メートルもの高い壁に囲まれ、沈黙を続ける作家、サリンジャー。

?

心のやさしさと、弱さと、軽薄さが同じであることを書き、世界の若者の心を突き動かした作家、サリンジャー。

病めるアメリカで、物や金の豊かさではなく、ほんの少し人への哀れみや静かな憧憬を持ちたいと考えた作家、サリンジャー。

疲労と自意識、孤独とやさしさ。

アメリカに「果敢なさ」という言葉を教えた作家、サリンジャー。


そんなサリンジャーが1948年に発表した「バナナフィッシュ日和」(ナイン・ストーリーズ)。

サリンジャー作品にしばしば登場する、グラース家。その長男、シーモアが自殺する。


ホテルで女性ミュリエルは母親に長距離電話をかけている。母親はミュリエルと、一緒にいるシーモアについて案じている「あなた、大丈夫なの?」と何度も聞く。とり止めもないお喋りと、深刻になる予感のするお喋りがまじりあっている。


シーモアは海辺で少女シビルを相手にバナナフィッシュというサカナの話をする。シビルを浮き袋にのせて、海の中で沖に向けて静かに押しながら


バナナがどっさり入っている穴の中にはいっていって、バナナを平らげすぎたバナナフィッシュは、肥ってしまって、二度と穴からは出られなくなる。と話す。その瞬間、シビルは海の中にバナナフィッシュを見たという。驚くシーモアはシビルの土踏まずに接吻する。


シーモアはローブを羽織り、その襟をぴったり合わせると、ホテルに戻る。エレベーターでシーモアは同乗した女性に話しかける。


「あなた、ぼくの足をみてらっしゃいますよね」

「何ですって!あたしは床を見ていたんですよ」

「僕の足が見たかったら、そう言い給え」「しかしコソコソ盗み見るのはごめんだな」

女はエレベーターをあわてて降りる

「ぼくの足は二つともまともな足なんだ。他人からじろじろ見られるいわれなんかあるものか」とシーモアは言う。


それから彼は部屋に戻り、眠っている女を横目に、自動拳銃を取り出し、眺め、弾倉をはめ込み、撃鉄を起こして、ツインベットの女の傍らで、右のコメカミを打ち抜く。








停留

非常に気分が悪い。どんな悪さかと言うと部屋のなかのトーキング・ヘッズが私のために神妙に歌ってくれいるような居心地の悪さだ。「痙攣」というのは世界の重要なキーワードかもしれない。


ところで心地の悪いためにブログを停留・・・けれども誰も停留をつっこんでくれないのがむなしくなり、書くことも思い浮かばないが、再び今日開いてみる・・・


というわけで停留している間に何をしていたかについてだけれども・・・


へたっている根性など入れ替えねばなるまいとて、ボクシングジムに行った。「辛かったらすぐに言ってね」というジムの人の言葉に、突如猛然と闘志が湧き上がり、次々とメニューをこなす。ラストに腹からごぼっと音がするのも構わず、ねじれ腹筋を黙々総50回こなす。ジムの兄さんに「スタミナありますね~」と感心され、「誰だと思ってるんだ」(←しかし誰なんだ)という自尊心がむらむらわきあがりあがる。兄さん曰く、「女子プロボクシングがはじまるから、選手にどう?」と誘われたが、毎日ジム通いを強いられると聞き、断腸の思いで断念。ただでさえ面白ろい感じの人生に、これ以上よく分からない要素を加えても・・・。戦場はいちおうありますしね・・・


しかし、翌日より微熱発生、腹が妙に痛い・・・・・なぜか目までシバシバする。


無気力状態で家にいるも、仕事は全て放棄・・・ネットで1晩中、「鳥肌実」を見る。素敵・・・


次に「グリム童話」をやらしい観点から書かれたしょうもない三文小説に取り掛かる。なんとこのグリム童話、赤ズキンちゃんが狼に命令され、服を一枚一枚脱がされたりする、「ほんとに怖いグリム童話」なのだ・・・。


次に「大槻ケンヂ」の日記の続きを読みふける。大槻さんは、なぜかここしばらく超常現象とパチンコにはまっておられる。某月某日、超常現象の何某という本を購入、某月某日、パチンコでする・・。みたいな感じで毎日が流れていく


次の公演には鳥肌実さんみたいな素敵な演説をしてはいかがかと下らないことを思いつき、「レトルト内閣 世紀末演説」を3時間に渡って練る・・・完成を見たところ深夜の2時・・・・劇団員の冷ややかな目を予感して削除・・・翌日、寝坊・・・


極めつけては「中島らも」の小説「今夜、すべてのバーで」を読み始める。主人公はアル中のヤク漬け・・・場面設定は病院の大部屋・・主人公の年齢35歳、死ぬと予告された年。さわりからかなりのクローズしてゆく小説であることは明らかである。そういえば、このほど芸術創造館の松原氏と飲みに行ったときにらもの「大人の一生」は傑作であるともりあがったが、あのヤバイ感じはなかなか出せない。以前、アル中のヤク中に交際を申し込まれたことがあるが、手は震えながら、瞳孔見開きながらのその感じは壮絶以外何者でもなかった・・・


というわけで、このブログを見てくれている皆様、今日のアクセスは7回。私は職場で2回、自宅で2回・・・・どうもあと3人の方々ありがとう。


正剛先生が京都で公演をなさるということで、早速予約!いまから心ここにあらず・・・


では、ごきげんよう。






GiantGrammy 「バレなきゃいいのに」

同世代劇団、GiantGrammy 「バレなきゃいいのに」を観劇した。このほどの「楽園狂想曲」に出演していただいた、福田氏が出演されていたので案内いただいたのだ。私としては福田氏の出番が期待していたより少なかったので不服だったが、公演は面白くて馬鹿笑いした。後で一緒に行った他の劇団員に感想を聞いたら、眠かったと言われ「笑いの点数甘いよ!」とガツンの指摘を撃たれたが、とにかく面白いものは面白い。ツボにはまって涙をながしながら笑った。ここ最近の欝もすっかりすっかり吹き飛ばされた、ありがとう!GiantGrammyさん。ともさかさんという俳優のひそかにファンの私は彼のお姿を久々に拝見して満悦。ともさかさんはこのほど携帯を失くされたらしく、カーテンコールで「僕のお知り合いか、お知り合いになりたいという方でも、受付おいてある新しい携帯に赤外線で連絡先を入れておいてください」とのたまわっていた。思わずお近づきになりたさのあまり入れようかと思ってしまったが、恥ずかしがり屋で、常識人というつつしみ深い性格が幸いしてやめておいた・・・。というわけでともさか氏、これをご覧になられたら是非一報ください。関係ないけれども、照明家の海老澤ちゃんに久々に会ったらこれまたもや美しくおなりあそばして、まばゆかった。いまやダイアナの勢いだ・・・美しさに恐れ入ってまたもや話せなかった。


夜は久々にパリからシャンソン歌手の千葉海音がやってきたので、パーティをした。うちのベーシストと、劇団のご意見番アートディレクターと、劇団首脳陣営と、美術の國本氏まで参戦して、意味の分からないメンバーが結集。話はサブプライム問題とは実のところ何であるかから、蟷螂がなぜ美しく怖いのか、音楽の醸し出す魔術性とそれに何が拮抗できうるか、小劇場とディレクター思考について、輪廻転生を抜け出ために・・・・。ほんと意味の分からない濃いメンバーのぶっ飛び話が炸裂!自分の平凡さを反省する。なぜかその席で、海音が國本氏の所属する名村造船所跡地「パルティッタ」というメガ劇場で20日に挙行されるパーティにおいて演奏することが決まる。なんだか知らないけど全てがノリノリだ!・・・。しかしながら、二日酔いで気分が悪いことといったら・・・。


只今公演中のGiantGrammy オフィシャルサイト

http://giantgrammy.com/

今はストップしているが千葉海音のHP

http://www.cata.jp/mio/

名村造船所跡地

http://www.namura.cc/art-meeting/index.html


「ナジャ」 アンドレ・ブルトン

今日は鬱屈抱えた夜なので、とてもとても・・・。飲まないと過ごせないので飲みながら、うろうろとあっちへ行ったりこっちへ行ったり心は狩猟で、身体はちいさく閉じこもる。羽は閉じる。接骨院の先生に肩が本来よりも内に入って、骨が曲がってしまっていますよと言われた。人の隣に座るときに、つい肩をすくめて内へ閉じている、ふっとと気付いて、身体を開く。対人接触には根本的恐怖がある。吃音もでる。瞳孔が開いているのを感じる。でも恐怖という感情が人間の中でとりわけ烈を極め、美に醜に近いことはなんとなく知っているのだから。だから目をつむって世界に向って心が開かれるイメージを・・・・・・・そんなイメージを・・・


1924年、仏の詩人、アンドレブルトンはダダを経て、さらに独自の運動を切り開き「シュルレアリスム宣言」を行った。シュルレアリストたちは自動記述という方式を用いてテクストを構築した。最速で、かつ速度を一定にしながら、思いつくままに単語を並べていくその記述実験は、相容れぬ単語の不思議な結合で特異世界を生み出した。その不安定を呼び覚ます超現実な世界は人間の潜在化におけるむしろ本来的な世界であると彼らは考えたのだ。


彼らはフロイトの夢分析に影響を受けながら、狂気と夢と現実を渡り歩くような危うい作品を生み出した。シュルレアル運動は、絵画に写真に文学に詩に演劇に、キリコ、エルンスト、デルヴォー、マン・レイ、ダリ、スーポー、アラゴン、アルトー・・・・シュルレアルのアーティストは数え切れなく、いずれもそれぞれに羽を延ばして独自世界を広げている。


「ナジャ」はブルトンの作品で、シュルレアル文学上最も重要な作品だ。


まず、いくつかのイメージの挿話が順序なく打刻される。キリコの画における物体配置について、ランボー、ロートレアモン、ユーゴ・・・まさに網の目のように主語述語無視の文体で、名詞、また名詞の接続詞なし。あっちへ飛びこっちへ戻り、困惑させるために書かれたオブジェ挿話が配列されている。説明したいところだが、まさしく読み返すのも癖ありで辛い・・・。とにかくこの話は「ナジャ」の話なので、別に挿話は読み飛ばせばいいのだが、そうはさせないところがブルトンで、わざわざ人を困惑の思考回路にもぐらせてから、本題に入る。その困惑は話を読む上で重要な前提、つまりスープのためのスプーンなのだ。


とにかくブルトンはパリの街角でナジャに会う。目を黒く縁取った奇妙な女にブルトンは思わず飲まれてしまう。


 彼女の名前はナジャ。「ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだからいいんです」


ナジャは奇妙な言動、不思議な風貌そして、暗示的で、意味深で、唐突だ。そして、それらが持つ不思議な美が発せられている。そして二人はしばしば、偶然的に、必然的に会うことになる。二人の間にはなんともいえぬ引力が発生することになる。


 いやたぶん私が望んでいると思う以上のことを彼女に考えさせ、行わせてしまう私の能力について、私に語り  

 かける。そんなやり方で、自分に背くようなことは何もしないでほしい、と懇願しているのだ。


彼女は不思議な言葉を放つ


 「あたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり」

 「自分の思考に靴の重みを負わせてはいけない」

 「神秘を前にしているのよ、石の人、分かってね」

 「火の手、これはあなたのこと、わかるわね?それはあなたなのよ」

 「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考なの」


彼女は象徴的な画を描く。目が花びらと仮した恋人たちの花、怪物の目から閃光を発する「猫の夢」・・・


ブルトンは彼女の不可解さに翻弄されながら、夢から狂気へと現実から非現実へ行ったりきたりする。その行き来の奮えとして彼女を望む、又は嫌気がさす。最後は結局、ナジャという女性は精神病患者であるということに帰結するのだが、その時にブルトンが試みる「狂気とは一体何なのか、そこに帰結はしない。私はナジャをそれとは別の次元で捉える」といった彼の強く弱い抵抗が物すごく切ない!!!・・・のは何なんだろう・・・・


 この結論は、君がときおりほほえみかけたときのように、涙の大きな茂みのうしろで、私にほほえみかける。「や  

 はり、愛なのよ」と君は言って、さらに不当にも、こう言い添えることがあった、「一切か無か、よ」と。


キリコやエルンストの絵画が胸に迫るように、なんとも言えない不安から感動が迫るのはやっぱり不思議だ。シュルレアルが人間の根本的現実の一面であることはいやおうないと思われる。


不安に近い。狂気に触れている。恐怖は美に近い。美とは一つの揺さぶりであり、静かな超然だ。


最後はこんな一文で終わる


 「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」











レオノール・フィニ

近所に喫茶店がある。自家焙煎を謳っていてでっかい焙煎機がひゅるひゅるまわっている。中に入るとヤニと動物と油との混ざった安食堂みたいな匂いがする。時を刻まない古時計と時を刻む古時計が二つある。それでも1日に2回は止まった時計も必ず正確な位置を示し、2つの相容れない時計たちは双子のように同じ場所をさし、そしてまた離れていくはずだ。全てが汚れ気味で黄色く染まっている。カップの持ち手ですら少しざらざらするので、思わぬところで勇気が試される。昔ながらの透明の冷蔵庫にグレープフルーツがごろごろ入っていて、こんなにグレープフルーツジュースが出るのだろうかといぶかしい、もしかしたら親爺さんはグレープフルーツ好きでこっそり食べるのかもしれない。なぜか2001年の刺繍カレンダーがいまだにかかっている。ミニチュア家具の展示が脈絡なくポツンとあり、さびれたラムプが6台ほどさびれた光を落としている。店には親爺さんが一人と猫が一匹いる。たぶん頑張ろうという心意気か、「ホットケーキはじめました」と書いたはりがみがある。ホットケーキはホットケーキミックスを使った味がする。


珈琲がやたら美味しい。そして猫が妙になつっこく擦り寄ってくる。さするとあまりにも気持ち良さそうにくねるので、やらしいなぁ・・とちょっと引き、ちょっと惚れる。ほっておくと隣で眠ってしまう。猫は無力な女王だからいい。


猫に囲まれた女性画家、レオノール・フィニを思い出した。フィニ展に行った時に購入した画集をひっぱりだした。やっぱりこの画家は猫性だ。高慢で、あっちの方から睨んでいて、瞼が重そうで、やらしくて、ふさふさしていて、キランと光っていて、高貴で、死を抱えていて、ひ弱。私の大好きな「O嬢の物語」や「悪の華」の挿絵をかいている。情熱の南米、アルゼンチンの生まれだ。舞台衣装や美術を手掛けている。コクトーやジュネが彼女に賛嘆の言葉を寄せている。シュルレアリスムに類される画家で、猫を愛した。




「本当の遊び」


本当にどうでもいい猫エピソード

幼い頃に子猫を死なせた。近所の猫はニワトリのひよこを残らず食べた。母は猫アレルギーで私も猫アレルギー。公演中、電車に乗って猫に餌をやり、水を替えに行くように申し付かった。春樹の小説に出てくる猫は「イワシ」だ。猫エチュードをやったことがある。幼なじみは犬のかわりに猫を飼った。エミリーには黒猫しか友達がいない。

フロルヴィルとクルーヴァル、または宿命 マルキ・ド・サド

時折落とし穴に落っこちるように人間不信や自信喪失が急激に訪れて、うめき続けたり、シンセ前に何時間も座り続けたり、ベットから離れられなかったりする。心臓が雑巾みたいにたわわにねじれるし、心の中にモサモサするでかい虫がいるんじゃないかと思う。殺虫剤飲みたい。関係ないけど、ピンク・フロイドに「狂気」ってアルバムがあった、久々に聴きたいな。だいぶマシになった頃に座長が心配して串カツ屋に連れてくれた。所詮、単細胞なので餌をもらうと機嫌がなおる・・・ということを理解なさっている・・・。こうやって生きておられるのも、何も何もみなさんのおかげだ。下見て歩かなきゃいけないなと、更につまずくやん・・・。何やらこのほど・・・というより常より情けない。


一昨日は座長の誕生日、昨日は師匠の誕生日。そうして明日は祖父の命日。母方の祖父は厳格で、机の上にチリ一つ、シーツの皺ひとつ許さず、毎日同じ時間に起床氏し、数分狂わず同じ時間にテーブルについた。広い家にチリ一つ許さず、家から玄関まで延びる長い階段の落ち葉も気に食わなかった。食事の時間は遅くてもはやくてもいけなくて祖母の苦労は耐えなかった。死ぬ間際まで辞書を片手に、中国や日本の歴史書を読みふけり、小学生だった私に分厚い三国志を与え、古い日本語のそれを読めずにいた私に、高校生になってからも「あれを読んだか?」と質した。父方の祖父は放蕩でお坊ちゃん。手妻と呼ばれる和式マジックしかなかった日本に洋行して西洋のマジックを持ち帰った、「四つ玉マジック」という本まで出版したらしい。ステッキを持ち黒塗りの車の前でポーズを決める粋なおじい様の写真を見たことがある。浪費癖で我侭、果ては貧乏生活。こちらも祖母の苦労が耐えなかったようだ。とはいえ、二人とも嬉嬉として夫に従い、女は苦労させた方がよいという数々の書物の皮肉を具現してたような形だ・・・女もなにやらかなしい


会社の同僚がサドの「恋の罪」を貸してくれた。近親相姦、親殺し、子殺し・・・といったドロドロの本をなぜ新婚早々幸福な彼女が選んで貸してくれたのか、対して私が不倫の勧めのような三島の「美徳のよろめき」を貸してしまったのか・・・・。


心がやさくれているので、会話における一文の長さにイライラする。1告白10ページ・・・そんなには長く喋らんでしょう・・・・いくら今の世の中「てにをは」消えて単純化されたとはいえ・・・本当に19世紀はこんなに長く喋っていたのか?一時期、夢中だったサドやらコクトーやら、ラディゲ、ユイスマンス、そんな類はめっきり読まなくなったので、出だしは違和感がある。でも何が面白いって、この魔術的な夢幻つらつら感が面白いのだ。「フロルヴィルとクルーヴァル、または宿命」はフロルヴィル嬢が是非我妻にと所望するクルーヴァル氏に今までの半生を告白するお話。やがて、彼女が彼女の知るところではなかったが、彼女が昔恋人にした男は自分の兄で、自分が心ならず殺してしまった男は彼との間に身ごもった自分の息子で、自分が死においやってしまった女は母で、現在自分が夫とするクールヴァル氏は自分の父であるということを知る。残酷な血の真実を知り、自害を遂げるというお話。愉楽に耽ったものが安らかに死んでいくに対して、清く精神を保った女は最後まで自らの徳業なしとげなかったことに後悔しながら死んでいく。そんなエピソードもあり、オイディプスのような宿命への絶対恐怖がある。最後の一文を書き記す。


「二人の双方に悲しく辛い一生が与えられたのは、二人ばかりかこの痛ましい物語を読む人びとにも、人間が心の安らぎを見出せるのは墓の暗闇の中でしかないことを得心させるためにほかならない。同胞の悪意、情熱の錯乱、そしてなによりも人の境遇につきまとう宿命を思えば、人間がこの世で平安を得ることなど永久にないからである」


映画「赤い靴」

今回映像撮影をしていただいた江嶋氏と映画談義をしようということになり、映画を見に行った。前回紹介したダヤン監督の新作「エディット・ピアフ」だ。「クリムゾン・リバー2」がセンスが見えたので期待大で見に行ったのだけど、映画にしてはドキュメンタリーすぎて、ドキュメンタリーにしては映画すぎて、何を見るやら焦点がぼやけてしまっていた。素材的にヒットすることは確実だし、ダヤン監督に気負いがあってて色々やってしまったのかな。2作しか見ていないけれど、ゆっくりした壮大な演出よりも、切れ味があってパンクな匂いのするものの方が得手のようだ。残念ながら映画は思ったほどではなかったのだけれど、ピアフを演じた女優マリオン・コティヤールの力量には感じ入った。ピアフの若い頃から47歳の死にいたる20数年を全部彼女が演じている。若い頃の下町育ちのガサツで擦れて、溌剌とした勢いあるピアフから死に至る直前は、薬とアルコールに侵され、病をわずらい殆ど老人のように退廃しているピアフまで。日本にこれだけの演技が出来る若手女優さんがいるのかしら、やれるとしたら誰かな・・・


江嶋氏とは結局映画が長すぎて談義できず。彼はなんでも「特撮オタク」でアングラ好みらしく、そのアングラ好きの「特撮オタク」を自負する彼に、好みの詳細と、野望やら、ついでに麻生太郎は好きか、村上隆を評価するかといったところまで聞きたかったのに!無念・・・・それは、またの機会。


で、今日書くのは全く関係なく、「赤い靴」について、野口雨情じゃなくて、アンデルセンの「赤い靴」・・・を題材にした映画について。私の本棚にはいわさきちひろ画の絵本「絵のない絵本」がある。おつきさまが貧しい青年に、夜な夜な見る世界の物語を聞かせてくれるきれいな散文詩集。


ハンス・クリスチャン・アンデルセン。デンマークの貧しい家に生まれ、俳優を志し、オペラやバレエ学校に入るも挫折、劇作家になりたかったが認められず、会話もうまくなくて、容姿に恵まれず失恋続き、夢見がちで、挫折続きの貧しい青年だった。アンデルセン童話には人の夢と書くところの儚さがある。清少納言の「なにも、なにも、ちいさきものはいとうつくし」みたいなちいさなものに対する喜びがある。マッチの火を何本も擦りつづけ夢を見ながら死んでいった少女、鏡の破片が目に突き刺さってしまったカイ、海の泡になった白雪姫、病に伏した王のために歌を歌った小夜啼鳥(ナイチンゲール)それは不器用だったが、夢を忘れなかった彼のこころのかなしさやうつくしさが映っている。そんなアンデルセンの書いた話の中でもとりわけて美しい「赤い靴」のこと。


映画「赤い靴」は1948年の映画ながら、バレエ映画の最高峰とも言われる作品だ。当時のトップダンサーを集めた映画で、15分に渡る劇中バレエ「赤い靴」が素晴らしい。ロシアバレエ団(バレエ・リュス)を彷彿させるバレエ団を舞台にして、ディアギレフを思わすプロデューサー、レルモントフ。ニジンスキーになぞえられたプリマ、ヴィッキィが登場する。レルモントフに見出されたヴィッキィは、同時期に見出された音楽家ジュリアンと恋に落ちる。二人は「赤い靴」で共に世界的な名声を博するが、その後、プリマの恋を許さなかったレルモントフにより二人は追放される。しかし、レルモントフはその後、ヴィッキィの素晴らしい踊りが忘れられず苦悩する。ついにレルモントフはヴィッキィを連れ戻す。彼女を連れ戻しに来た夫ジュリアンと、世界でたった一人自分を育て上げてくれたプロデューサーレルモントフの間で苦しみ引き裂かれるヴィッキィ。彼女の足は踊り続けなければいけないという「赤い靴」を履いているのだ。


ニジンスキーが去ったあと、バレエ・リュスをついだ俳優レオニード・マシーンが自ら振り付けした踊りも見ることが出来て見ごたえがある。15分に及ぶ「赤い靴」も素晴らしいが、その他のシーンもなかなかいい。レルモントフを演じたのはアントン・ウォルブルクという俳優らしいが、彼のシーンで一等好きな一場面がある。去ったヴィッキィに駅で再開する場面だ。


駅でレルモントフは去っていったダンサー、ヴィッキィを待っている。仕立てのよい黒いコートに白い帽子をかぶり、ステッキと手袋を持っている。颯爽と歩き、ヴィッキィのいる車両を訪れる。背筋を真っ直ぐ伸ばして、挨拶をし、「座っても?」と許可を求める、少し気だるげに壁に凭れると優雅に帽子と手袋を椅子にほおリ投げる。それから背筋を正して、話しかけながらゆっくりと両手をあげると、すっとサングラスを外し、胸ポケットけかける。優しいジェスチャーで会話をすすめ、ポケットから金色のシガレットケースを出すと煙草を一本摘まんで、ケース軽く4度叩き、唇の端に咥える。少し追い詰めるようにおどすように話を進めて、そのあとヴィッキィの傍らに腰掛けるとステッキを軽くまわしながら、優しく諭すように戻ることを勧める。洗練の演技で、ワイルド、ボドレール、サティなんかの優雅な時代を彷彿、ロシア・バレエ団が牽引した世紀末ダンディズムを再現していた。トレビアン。



友よ、また逢おう

「楽園狂想曲」でPVを担当していただいた大手氏とバーベキューをした。彼女の本職はTV局のADなのだが、なんでも睡眠時間1時間なんてざらの超過酷労働、話を聞いていると非常に痛ましかった。それでも彼女の「遊んでやろう」というパワーがすごくて、朝まで飲んでコンサートをこなす来日大物アーティストかくや、のすざまじいエネルギー。感服しました・・・それにしても彼女の作ったPV、今から見ても短時間でツボを抑えてる。指先や、足の動くときにつま先が浮く様子を撮るとか・・・なかなかTVの人とは思えぬ映像作家の感性も見せてくれた。


少し難解な本を読んでいるので、箸安めにと思いこんな本を読んでみた。「友よ、また逢おう」。この本は1991~1992年のあいだ、村上龍と坂本龍一のあいだで交わされた往復書簡をまとめたものだ。村上龍は裸の文章でざっくばらんに話しかけていて、答える坂本も屈託のない形で答えている。もちろん坂本龍一の屈託のなさは龍のそれよりはるかに機械的な感じがするが、それは坂本龍一の性格に起因するものと想像できる。その冷たさは別に、あたりまえだけれども性格の冷たさと=ではない。



1990~1991とはどんな頃かというと、湾岸戦争が勃発したり、ソ連が崩壊したり、バブル崩壊がきざしたりしている。坂本龍一はワールドツアー後、ベルトリッチ監督と「ラスト・エンペラー」の次の作品、「シェルタリング・スカイ」のサントラ音楽を作っている。村上龍は「トパーズ」の監督として撮影に没頭している。そうしてふたりともキューバのリズムや、その政治的暗さと打って変わった人の明るさに傾倒している。そんな頃の話だ。村上龍は自ら熱くなるものに対して少年のように目をキラキラさせて坂本に訴えている。カメラを買ったこと、ゴダールに会ったこと、アンゲロプロスに頭を打ったり、戦争や社会に対する思想の格闘も(どう考えればいいのか?といったことまで・・・)。坂本龍一はケージやドビュッシー、母体回帰するビートやベルトリッチの映像や、工場が好きなことまで書いている。そうして後半は二人ともキューバ音楽礼賛だ。最後は浅田彰が解説を書いている。いささか時代は古いがまだま現役に面白かった。


関係ないけれど今、「白色テロル」というバンドをやっている。龍の手紙に「テロル」の文字が2箇所ほど出てきた。そこを紹介しようと思う。


(アルバム「ビューティ」への賛辞として 村上龍から坂本龍一へ)

 エディ・マルチネスのギターは明らかにテロルの香りがした。ジョン・メイオールに始まる無反省なロック・ギタ―、それはロックの神話、ロックの幻想におけるチャウシェスクのようなものだった、それを殺していると思う「AMORE」はラヴ・ソングだった。








「インランド・エンパイア」 デヴィット・リンチ

昨日は夜遅く、劇団員の吉本が唐突に遊びに来た。まぁ、唐突にとか、思い立ってとか、ふらっと、不意にとか他人のそんな衝動に好意的、かつ興味津々な私としては歓迎だ。土産にいただいたビールと冷蔵庫にあった豆腐を突きながら夜な夜な話をしたが、なぜ彼が突如あらわれたかについては謎だった。まぁ、だいたい大人っていうのは(もう大人とよんで差し支えない状態に陥ってしまった・・・)周辺を突きながら、そのことで核心に触れるよりもより居心地のよい共感を共有できたりするのかもしれない。


ニーチェの書評を読んでいたという私に、彼は「アポロン型」と「ディオニソス型」の特質に触れ、ニーチェ解読の手ほどきを話してくれたのだが、脳みそから鈴の音が聞こえそうな私の頭では到底理解も出来ず、瞳はビー玉で、はい終了。その後、本棚の本についての話になり、なぜか私が古本屋でわずか100円で入手した、大槻ケンヂの日記本に興味を示す吉本氏。たまたま机に乗っかっていたシーレの画から画集をひっぱりだして絵の話などを一通りした後、好みの女の子の話などになったら俄然そっちの方が盛り上がり、俗物性を再認識・・・まぁ、そりゃそうだよなぁ・・・人生やり直すべきか、脳みそ入れ替えるべきか。


それで、前置き長くなってここから本題なんですけども・・・デビット・リンチの最新作を見に行った。シュルレアルの三時間に及ぶ大作だ。吉本さんは一度一緒に行こうと誘ってくれたらしいが、すっかり失念。勝手に見に行ったのですが・・・なんといってもベネチア金獅子なのに市内の封切は1館だけ・・・日本人はアカデミーにしか興味がないことに納得。仁侠映画ご用達のにおいがする古ぼけた映画館で、客は少なめ、しかも上映2時間に及ぶ頃にはおじさま方の退席がちらほら出る始末・・・。痛ましい事態ではあったが、映画は良かった。さすがの狂才、意味が分からない!インランド・エンパイア、まさしく「内なる帝国」がその全てをあらわしている。世界はいくつかの側面、例えば兎人間の部屋、映画女優ニッキーの話(映画内で殺人がおこると予言されたニッキーは)、映画内の映画「暗い明日の空の下で」(実はいわくつきの呪われた映画だった・・)、に分断され、それぞれの入り口から入ったストーリーは出会ったり、すれ違ったりしながら交錯していく。


音楽家でもあるリンチ監督の音響センスは抜群、それに才能あるホラー演出がストーリーの不可解さにも関わらず、全体をキリリと締め上げて面白くしている。ダークに進行していくストーリーに突然、はっちゃけたお色気ダンスが入ったりして私のようなB級素人のツボもきちんと抑えてくださる。ちょうど今、シュルレアル小説の入門書とでも言うべき、アンドレ・ブルトンのナジャを読んでいるのだけれど、まさにそれの映像化という感じで、妄想から妄想へ、三角からピラミッドへ、ピラミッドから薪の切り口へみたいな・・またもや言ってることが訳が分からなくなったのでそろそろ終わる。封切られている間に行く方が身のためだ。


リンチの映画で久々に祐木奈江を見た。とぼけた英語で、膣に穴が開いた友人のことを喋り続けるというスリリングな役。思わず彼女が活躍したドラマ「ポケベルがならなくて」の主題歌が懐かしくて、コードを引っ張り出して弾いてみた。秋元康の寂しい歌詞にのせた、コード進行の綺麗な曲だ。


http://www.inlandempire.jp/index_yang.html

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