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パオロ&ヴィットリオ・ダヴィアーニ兄弟 『復活』

2001 伊独合作 

パオロ&ヴィットリオ・ダヴィアーニ兄弟と言えば、「カオス・シチリア物語」を見たときの衝撃を忘れられないが、今回はダヴィアーニ兄弟が敬愛していたレフ・トルストイ「復活」の映画を紹介したい。

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陪審員に選ばれた将校ネフリュードフは被告の娼婦を見て衝撃を受ける。彼女は彼が若かりし頃、叔母の家で使われていた召使でほのかに恋心を抱き、復活祭の夜ついに水からの欲望を抑えきれず関係を結んでしまった娘、カチューシャだったのだ。ところが彼はその翌日カチューシャに100ルーブル渡すと彼女の前から姿を消してしまった。彼女は無実の罪に問われ、裁判上の手違いから有罪判決を受けシベリア徒刑に処せられる。彼はそもそも農奴制に疑問を抱き論文を書く高潔な青年であった。彼女の人生の転落を見て自責の念に駆られたネフリュードフは全ての資財を投げ打って彼女を助けてようとした。最初は頑なに心を閉ざしていたカチューシャだったがシベリアまで共に寄り添ってくるネフリュードフの姿を見て心を打たれる。しかし彼の愛が使命感と贖罪にすぎないことを知っていたカチューシャは彼のことを愛しながらも別の男性と結婚する事を決める。そうして愛したネフリュードフを自分への贖罪から開放しようとするのだった。

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1920世紀にかけての激動の時代、文豪レフ・トルストイ自身、貴族の家に生まれながらに農民と共に土地を耕し、社会の改善を試みた。「復活」は彼の半自叙伝的な作品と言える。

なお、この作品でロシア正教会の冒涜箇所があると指摘され教会から破門を受けている。

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パオロ&ヴィットリオ・ダヴィアーニ兄弟はイタリア出身の映画監督でイタリアの風土に根付いた作品に秀逸なものを残している。ロッセリーニの「戦火のかなた」を見て映画界しており、彼らの映画に対する愛情は作品の端々に表現されている。

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日本では島村抱月の舞台化により松井須磨子が歌う「カチューシャ可愛いや、別れのつらさ~」のメロディが親しまれている。




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薬の日

今日は薬の記念日だと言って

チンはマセラティを飛ばした

道路は割れて左右に開く

夜景が次々宇宙に投げられて

破壊されたら星は散る


チンは薬を手に入れて

あとでお前にも打ってやる、まずはお楽しみさと

ヤンとベットルームに引きこもる


隙間から二人の情事を垣間見る

少女は針が肉に食い込む瞬間を

心臓をぶるぶる震わせながら

恍惚の恐怖を堪能する


少女はアルゼンチンのサッカー中継を映画館で眺めている

筋肉を隆々とさせた黒い人が近づいて

本物はブラジルにある、本物じゃなくちゃあ駄目さと言う

黒い人は少女にピストルをくれる

グットラックと一言添えて


公園の滑り台を降りた時

向こうからヤンが迎えに来る

少女の目はダイヤモンドになって鋭くひかる

銃口をヤンにピッタリ向ける

ヤンは瞬時血液を逆流させると顔を真っ赤にして素早く打つ

だけど薬でどうにかなっている

ヤンは怒り狂ってジャングルジムや砂場に連射し、その後・・・弾はもうない

少女は銃先をヤンの心臓に定めた

世界が落ちて

ヤンは死ぬ


世界が落ちて

ヤンは死ぬ


少女は暑い国へ渡る

そして燃える赤紫の花になる


再来!








タイトル「無」

机に向っていたよ
始末書一枚広げてね
書いているんだ 何って 始末書をさ


大きな空が手の平で じゃんけんぽん
お前 ぐーだすか ちょきだすか ぱーだすか
うっかりお名前失念しましたが
もしや祖はうんめいとやらでしょうか?


宵のカケラもぐもぐと
煙草のケブリそろそろと、フィルターのはしチリチリと
焦げてゆく これ おいらの人生か



エビータ

アルゼンチンの歴史を変えた精神的リーダーエヴァ・ペロン。彼女の国葬から舞台は始まる。アルゼンチンにとって彼女は何だったのか、彼女の追い求めたもの、そして彼女のもたらしたものは。ドラマティックな激動の人生と激動の時代を描き、アルゼンチンの聖母と呼ばれたその存在の功罪二面を捉えた作品。
数々のライバルを押しのけて抜擢されたマドンナ演じるエヴァ・ペロンがまさに適役。 作曲は「キャッツ」や「オペラ座の怪人」で知られるメガ・ヒットメーカーのアンドリュー・ロイド・ウェーバー。作詞はティム・ライスのゴールデンコンビ。


ストーリー
私生児エヴァはタンゴ歌手の愛人となって首都ブエノス・アイレスへ出る。その後、次々と愛人を変え、男を糧にのしあがってゆく。最終的にエヴァは陸軍大佐ペロンの愛人となり、政界に登場する。クーデターがおき、ペロンは投獄されるが、エヴァはラジオという武器を通じて文盲の最下層の人々に働きかけペロンを救う。やがて彼女はアルゼンチンの聖母と呼ばれ、人民の精神的リーダーとなるまでに成長する。しかしそんな彼女に病魔が忍び寄るのであった。労働者「チェ」が傍観する人物として彼女の人生を語るストーリーテラーとなっており、そのことが作品に批判的要素を加味している。


音楽
作品の殆どは音楽で音のなっていないシーンは皆無。タンゴ、ジャズなど変拍子も織り交ぜた難解な音楽でありながら、ロイド・ウェーバーの耳に残るキャッチーなメロディーはミュージカルはその歌が決すというのを改めて確認させる。マドンナの歌い上げる「Don't cry for me Argentina」・・・これだけで、有無を言わせぬ感動がもたらされる。


パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
エビータ(字幕)


ゴドーを待ちながら

演劇史に革命をおこし、その新たな表現手法によってノーベル文学賞を獲得したアイルランドの作家サミュエルベケットの代表作。現代の演劇、演劇を越えて映画、ドラマですらもベケットの影響を免れない。



舞台には一本の木、ゴゴーとディディーはそこでゴドーと呼ばれる人物を待っている。ゴドーは誰なのか、何のために待っているのかそれらは終わりまで明らかにされない。二人はただ、待っている、二人はなんということもない会話をし、なんということもなく暇をつぶして待つ。二人は最後にこの木に綱でも吊って死のうかと相談するが、綱はにべもなく切れてしまう。二人は再びゴドーを待つことに合意する。ベケットのゴドーを待ちながらは批評家達の様々な解釈に荒らされている。待っているのは神だとか、意味もなく待つのが人生なのだとか、現在における意志薄弱な人間性とか、むしろ彼ら自身がゴドーなのだとか、哲学的見地から、神学的見地から、けれどもそれらの解釈が全て意味をなさないくらい舞台化においてこの戯曲は解釈を免れている。いささか滑稽で空しく、ずしりとした疲労の重みを持ち、見当違いな悲しみさえ醸し出し戯曲自身の持つ無償性を体現する。むしろ「ゴドーを待ちながら」は「何でもない」という世界の軽さと重さの背中合わせの「空気」だと思われる。


ベケットはアイルランドのダブリンで生まれ、パリに出てすぐに同郷のジョイスの仕事を手伝う。大戦中は抵抗組織の一人として戦い、戦後小説活動に専念する。母国語ではなく、あえてフランス語を使用して書いたのは、主語と述語と目的語がある明確な文体を嫌ったためと言われる。かくして、この整合のとれない、奇妙でいびつな文体は生まれた。


1926パリのアッパートを改造しただけの小さな小屋で上演、この何もおこらない舞台に怒って帰る客が続出、それが更に話題を呼び数年後には様々な言語に翻訳されヨーロッパ中に広がった。

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エストラゴン なんだいありゃ?

ウラジミール 木さ

エストラゴン いや、だからさ、何の?

ウラジミール 知らない。柳かな

エストラゴン ちょっと来てごらん。 首をつったらどうだろう?

ウラジミール なんで

エストラゴン 綱の切れっぱしかなんかないのかい?

ウラジミール ない

エストラゴン じゃあ、駄目だ

ウラジミール さあ、行こう

エストラゴン 待った、俺のズボンの紐がある

ウラジミール 短すぎるよ

エストラゴン 足を引っ張ってくれりゃ、いい

ウラジミール じゃあ、私の足は、誰が引っ張る?

エストラゴン ああ、そうか

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?

エストラゴン こんどは何をするかな

ウラジミール わからない

エストラゴン もう行こう

ウラジミール だめだよ

エストラゴン なぜさ?

ウラジミール ゴドーを待つんだ

エストラゴン ああ、そうか。



安堂 信也, 高橋 康也, サミュエル・ベケット
ゴドーを待ちながら

この世の果て

「高校教師」「家なき子」「101回目のプロポーズ」「未成年」「高校教師」と数え上げればきりがないほど、記録的な視聴率をあげゴールデンタイムを制したシナリオライター,野島伸司。過去の音楽や文学からの引用、タブーとされている表現を安易に扱いドラマ感をあおりすぎるなど攻撃されることも多い作家。それでも持たざるものの目線から貧しさからくる屈辱感や卑屈感を巧みに描き、どうにもならぬ状況をもがき苦しむ弱い人間を力いっぱい表現した作風には心に響くものがある。



野島 伸司
この世の果て

まりあは夜道で事故にあった男を助ける。男は一時的な記憶喪失に陥っているふりをするが、本当は世界的に知られたピアニストだった。まりあとその男(士郎)は徐々に惹かれあう。そうして士郎が連れ戻されようとした時、彼は再びもとの世界に戻ることを拒み、グラスで自分の手を刺す。その捧げられた愛は転落のはじまりだった。逃れられない過去の放火事件、光を失った盲目の妹とその妹に心惹かれる醜い痣を持つ男、士郎を奪い取ろうとする残忍なホステス、・・・やがて士郎は堕落し、覚せい剤中毒に溺れることになる。まりあは母の店で働く男に士郎と別れるよう忠告される、彼には未来が透けて見えるという。「この世の果て」から帰ってきてから・・・。

―第一話の終わりに挿入される詩より


愛しいまりあ、いつか星に願いを込めて

雲から遠く離れた所で君と目覚めたい

悩み事などみんな

レモンドロップスのように溶けて

煙突よりもうんと高い

空の向こうに消えてしまう




四季ノ唄

タカコキカク 女芝居「四季の唄」 4・20~4・21 雲州堂


久々によい舞台を見た。これほど戯曲がしっかりしている舞台を見るのは久々だ。帰り道に劇団員からお前の戯曲より数段いいと痛いことを言われ落ち込んだほど。


戦後の只中、没落してゆく四姉妹の有様を「斜陽」の台詞などを時折引用しながら話が展開する。


長女の春子は母親の失踪の知らせを受け嫁ぎ先の桂木家から小倉山家へ帰ってくる。戻ってきたら小倉山家は日々の暮らしにもこと欠くほどに落ちぶれており、春子は長女として小倉山家を支えるため戻ることを決意する。次女の夏子は「斜陽」を愛読し、女だてらに文学者を志している。戦争で戻らなかった婚約者への思慕に囚われながら、日々黙々と筆をとる。三女の秋子は病弱な体ながら傾いた小倉山家を支えるために教師として働きに出る、ところがある日無理がたたって倒れてしまう。末娘の冬子はまだまだ娘気分が抜けず姉達のように働きに出る決意がわかず、かといって家事も充分にこなせず、わがままを言っては皆を困らせる。そんな力をあわせて日々を乗り越えようとする小倉山家の四姉妹の所に銀座のいわゆるパンパン娘達が間借りをしにやって来る。


斜陽を連想させる没落貴族の子倉山家、かず子を思わせる逞しさで四姉妹を描く。「斜陽」の引用箇所はお母様がスウプを救ってあっと声をあげるところや、おかあさまがおしっこをなさるところ、と心得たシーン。結びは「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです」というかず子のセリフを引用したもの。四姉妹は太宰が傾倒していた「櫻の園」の姉妹や若草物語の四姉妹、谷崎の細雪の四姉妹などを連想する美しさ。個人的な好みもかみして感動した。



太宰 治
斜陽


BELLE AND SEBASTIAN

 96年結成、スコットランド出身のバンド。とにかくシンプルで繊細。孤立感や疎外感といった若者の優しい種類の苦悩を感じさせる歌詞。ヴォーカルは吐息混じりでため息みたい、ギターは淡々と爪弾かれて静かに流れる、ストリングス系やピアノなどのやわらかい音色が満たす。壊れ物のガラス瓶のような音色。系統で言えばサイモンとガーファンクル、ビートルズも思い出す。ジャンルで言えばブリティッシュ・ポップだろうか。


Belle & Sebastian
Tigermilk


死者の奢り 大江健三郎

死者の奢りという作品は腐臭がする。腐ったものの柔らかく反発する表皮の触感がする。そうして目だけがぎょろぎょろと浮き出て露骨な反抗を述べている。その疲労感、腐敗感は疲れすぎた世界を生きる、我々の鈍い共感を呼び覚ます。


僕と女子学生は解剖死体を処理するアルバイトをするため医学部の地下へもぐる。そうして管理人と三人で、濃褐色の水槽から新たなアルコール溶液を満たされた水槽へ運搬車で死体を運び移す作業をしている。管理人と女子高生がいなくなると兵隊の死体が僕に何事かを語りかけてくるようだ。休憩中、女子高生が話しかけてきて自分が妊娠しており、堕胎のためのお金を得るためにバイトをしたのだと告げる。彼女は疲労の匂いがする。


大江健三郎 言わずとしれた文学者では日本2人目、川端につぐノーベル文学賞作家。授賞式での記念公演「あいまいな日本の私」は有名。三島がノーベル賞を逃したとき、次の受賞は大江健三郎だと言ったらしい。ソンタグとも親交があり政治的発言も行っている。東京大学仏文学科卒。在学中に小説家デビュー


―死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡めあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴染みにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗にからだをすりつけあっている。彼らのからだの殆ど認めることができないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を硬く閉じた顔を豊にしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘りつく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に満ちる。


大江 健三郎
死者の奢り・飼育



竹内銃一朗 あの大鴉、さえも

独身男が三人がかりででっかいガラスの板を山田さん宅に運ぼうとしている。ところが親方が指示した場所に山田さん宅はなく、三条との表札があがっている。ああでもないこうでもないと右往左往する三人。独身男たちは主婦の友社で買った家計簿をつけ、銭湯で洗濯物し、電子ジゃーを枕元においてご飯のたける音を聞きながら幸福を感じ、500円も持ち合わせていないその日ぐらしのやもめ男たち。どうしようもなさが滲み出ている。最後にその三条さん宅は実は山田さん宅で、昔は清純派女優として、そして今はポルノ女優として活躍している三条ルミ宅であることが判明。しかしその三条宅には玄関がなく、再びガラス板を担いでうろうろする三人。


あの大鴉(大ガラス)、さえも。ちなみにデュシャンの作品に大ガラス「彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも」という運搬中にヒビが入ってしまったガラスのオブジェがあり、そこからきているらしい。


分かり易く言うと、ああでもないこうでもない、うろうろ、ウダウダで構成されている戯曲。ベケットを思い起こさせる無意味で不条理世界、そして必死に重みに耐えなくてはいけないという重圧感が重いガラス板を運ぶという作業で表現されている。岸田戯曲賞受賞作品。小劇場界に衝撃を持って迎えられた。



―山田さん宅は見当たらず、あたりはうっすら寒くなってくる。


独身者2 立ってみないか?

独身者3 立つ?

独身者2 立てるだろ

独身者3 立てるけど 立ってどうするんだ?

独身者2 歩くんだよ

独身者3 どこまで?!

独身者2 汗がでるまでさ

独身者3 行くあてもないのにか

独身者2 あてなんかなくていいんだよ 汗を出して冷えた身体を温めるのが目的なんだから これは



※竹内銃一朗

 早稲田大学文学部卒。1981年「あの大鴉、さえも」で岸田戯曲賞。2004年、紫綬勲章受賞 佐野史郎と「JIS企画」を主催。


あの大鴉さえも


限りなく透明に近いブルー


米軍基地近くの福生で龍自身の半自叙伝的小説。ニブロールを砕き、モルヒネを打って、黒人相手に繰り広げられる性の饗宴、SEXか薬かの生活の中で、絶望的な虚無感をいだきながら崩壊していくまでの期間を鮮やかに描いた作品。今作の芥川賞受賞はその過激な表現により、選考員の間でかなりの論争があったらしい。崩壊の、そのぱっくり開いた亀裂口の鮮やかさゆえ素晴らしい作品。

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―恋人のリリーと二人でドライブ中、変電所の前で車を止める

きっとここ裁判所よ、リリーはそう言って笑い始め、灯かりに照らされて拡がった変電所を囲む畑を見回す。風に揺れるトマト畑。

まるで海だわ。

トマトは雨に濡れて暗闇の中で唯一赤い。クリスマスに樅の木や窓辺に飾られる小さな電球のように、トマトは点滅している。火花を散らしながら揺れる無数の赤い実は、まるで暗い深海に泳ぐ発光する牙を持つ魚のようだ。


村上 龍
限りなく透明に近いブルー

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あとがきにリリーへの手紙という部分がある。そこにはこう書いてあった

こんな小説書いたからって、俺が変わっちゃってるだろうと思わないでくれ。俺はあの頃と変わってないから。リュウ

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愛情を感じるぶんなにか悲しいあとがきだ

ローザス「デイッシュ」

ローザス「デイッシュ」

4/14  びわ湖ホール



世界のコンテンポラリー・ダンス界を牽引するベルギー(ブリュッセル)のダンスグループ、ローザス。今年の新作は振付家アンヌ・テレサ・デゥ・ケースマイケル自身が踊る「ディッシュ」。音はジョン・コルトレーンがインド音楽に影響を受けて作った「インディア」およびインドの古典音楽ラーガ。普段のキレのあるダンスに加え、ゆったり「ゆらぎ」の表現が多く見られた。まさに音楽を体で奏で、身体がリズム体になるローザスの作品は刺激的。ローザスの新作とあって関西の演劇界・ダンス界・芸術界の総勢が終結したような客ぶれだった。




Secret Garden

94年結成、ノルウェー音楽界において重要な音楽ライターであったシンセ奏者ラルフ・ラブランドとスゥエーデンのバイオリニストフィンヌーラ・シェリーの二人のユニット。幻想的で哀愁感漂い無限の広がりを見せてくれる旋律。知り合いに借りてから手放せず、初期の舞台によく使いました。今ではもっとリズムのあるもの、激しいものを好みますが、当時はケルトの幻惑的なハーモニーやその悲鳴が続くような残響、高揚の虜で、まさにその音に自分が作りたい舞台作品の理想世界が具現化されていました。エンヤと近いものを感じますが、特に優れた数曲が煽る強い感情を思えば、こちらの方が好みです。


Secret Garden
Dawn of a New Century


無防備都市 ロベルト・ロッセリーニ

世界中に衝撃を与えたイタリアン・ネオリアリスムの最重要作品。ローマ封鎖中フィルムを手に入れるのすら困難な状況の中でロッセリーニは食にもことかきながら、資金を調達して撮影した。フィルムの繋ぎ目にノイズがはいる、ほとんどが現地主義で一発どりを余儀なくされている・・・などはネオリアリスムのドキュメンタリー観を強め、かえって迫真的なシーン生み出すことになった。

アイ・ヴィー・シー
無防備都市

ドイツ占領統治下、ムッソリーニ失脚後のローマを舞台とする。対独レジスタンス地下抵抗運動、指揮者のマンフレディは印刷工の同士フランチェスコのアパートに匿われる。ところがゲシュタポの捜査に会い、二人はゲシュタポに連行される。フランチェスコの恋人ピーナが彼の捕らえられた護送車を追って狂ったように走りながらに撃ち殺され、もんどりうって死ぬシーンは、映画史における最大の名シーンの一つとして挙げられるだけあって、衝撃が目に焼きついて離れない。フランチェスコは愛人、マリーナの家に匿われるが、物資や麻薬に溺れるマリーナはフランチェスコを裏切り、ナチと密通する。ゲシュタポ本部でバーナーや鞭を使った激しい拷問に屈せず死ぬレジスタンス戦士、フランチェスコ。かたや隣の部屋はピアノを置いた豪華なサロン、ナチの将校達の一人が「我々がしているのはただの人殺しだ」といきどおる退廃的なシーン。フランチェスコを助けレジスタンス運動に協力した神父ドン・ピエトロの銃刑を金網越しに食い入るように見つめる子供の目。彼らは生き生きとした反抗を称えている。子供らは死んでいったものの意志を受け継ぐ明日の戦士なのだ。



当時ハリウッドで権勢を誇っていた大女優イングリット・バークマンが映画館でこの映画を見、地位も名声も捨ててロッセリーニのもとに参じた。

タデウシュ カントール 「わたしは決して戻らない」

 講堂の形をした教室に老人達が入ってくる。彼らは自分の若き時代を模した蝋人形を背負っている。突如、ワルツが鳴り始めると彼らは踊り、人形を床にうちつけ、すざまじい勢いで喋りだす。カントール自身が登場し、彼らを指揮しはじめ、その演奏(演劇)を終わらせる。

 その舞台はカントール本人の言うとおり演劇というよりハプニングの先駆けに近い。通常なされる心理的なプロセスによる表現ではなく、メカニカル的な感情表現方法、物質の組み合わせのアンヴィバレントによるシュールレアリスム的な手法。それらは俳優個々人にとっては明らかに演劇(演じる)ではない。カントールの舞台において俳優はむしろ有機的物質という一つの物質なのである。

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彼らの喋る言葉はインディッシュ語を含んでおり、ポーランドにおけるユダヤ人の虐げられてきた歴史に対する静かな反抗と忍耐の眼差しが根底に流れている。舞台を見て真っ先に思い出すのは彼らの目だ。ぎょろつかせ不穏に死を称え、しかしその死がまるで生であるかのように・・・彼の舞台において死は生き生きとしている。

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カントールの演劇は「死の演劇」と呼ばれる。それは無機的要素に溢れているということだ。カントールは過去にこだわり、過去に遡行する、というより「未来」が切断されている。常にカントールは切断に惹きつけられる。カントールの過去に関する概念はよくある未来との対比でもなく、いわゆる思い出や歴史といったよく書かれる概念ともまた違う。カントールの過去に対する向き合い方は「記憶の貯蔵庫」といったもので、その概念は歴史や生死にまつわる普遍性をいかに含んでいようがいまいが、非常に個人的なイメージから発せられるものである。この舞台でカントール自身が出演するが、カントールはそれを「芸術は権力と対極の位置にある。マスの力に拮抗する個人の強固さを示すために自分「カントール」という個人を出演させるのだ」と言っている。カントールの考える芸術とは個人の力強さを指し示すものである。

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「わたしは決して戻らない」

それらの人々は宿屋に集まる。司祭、弁士、売春婦が、道化が・・・それらはクリコット・シアターに登場したあの人々だ・・。最後にやってきたのが「芸術家よ、くたばれ!」だ。以前の舞台の亡霊たちは過去に遡行し、消え去る。最後に「私の最後のアンバラージュ」棺が残る。ユリシーズの「軍服」が残る。過去のがらくたが皿洗いによって掘り起こされる。はだしの女中は古代クロノスの従者に変わり、武装した「バイオリン弾き」のオーケストラに追われるように逃げる。死の教室が引きずりだされる。それらは流離い続ける、宿屋にユリーズがなされる、ユリシーズはマネキンであり、それは永遠に去り、残る私がユリシーズである。私は私の最後のアンバージュを運び去る。

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タデウシュ カントール, 鴻 英良
芸術家よ、くたばれ!

如月小春「ロミオとフリージアのある食卓」

何かの本で如月のことを普通の天才と書いていたがまさしく言いえて妙。同時期に活躍したアングラ演劇、岸田、唐、寺山などが持つ故郷の「原風景」に対して如月小春のそれは「都市」のイメージを醸す・・・どこにも依拠しない、何もない、掴みどころのないからっぽの風景・・・けれども如月戯曲の優れたところはその虚無やノイズを主体的に捉えていることだ、「遊んでいる」といった方がしっくりくる。

しばしば都会的とされる空虚さは個へと返り閉鎖してゆくものだが、如月はその感覚を遊び、楽しみ、そして社会とコミットすることを求めてくる。戯曲は生き生きと呼吸し、やけっぱちで、さりとて倒れこまない現代人の強さがある。如月小春本人は非常に礼儀正しく、挨拶をかかさない、物事にきちんと向き合うタイプの女性だったという。まさしく、同世代の演劇の枠から離れた普通の天才の登場だったのだ。如月は当時としていちはやく、演劇に映像表現や音楽とのコラボレーションを取り入れた。作劇法も台本を基調としたものから、俳優のワークショップ、エチュードから舞台を作るなど演出上でも前衛的な人物だったようだ。

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如月 小春
如月小春精選戯曲集

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中野区民の生活に創造性と非日常性を持たせるためがロミオとジュリエットの舞台を作る計画をしている。俳優が選出され、残るロミオ役に何も知らない三越の配達員バイトが抜擢され、配達バイト中に幽閉されロミオを強要される

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葉里巣の求婚シーン

葉里巣 樹里絵津徒、では何が不足なのだ。私はそなたのためなら何でもしよう。指輪も買おう、浮気もしよう、火災保険なんかにはいるのもいいな。そうだ、子供ができたら親子三人、日曜日には奥多摩あたりまでドライブにいかないか。人気のない岩かげにカローラ止めて排気口から送り込まれる甘酸っぱい死の匂いを嗅ぐなんてのも洒落てるぜ。そうさ、二人でやれば他のどの夫婦にも勝りも劣りもしないりっぱな倦怠期を迎えられるに違いない。樹里絵津徒、何故なら私はそなたをこころから愛してる、などと眉一つ動かさずに言える男だからさ。

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葉里巣 ま、とにかく現代のしかも中野区なんですから、生活の端々に退廃のぞかせて、気分は暗め、暗めに、しかしあまり物事は深く考えずに優柔不断さえ失わなければバッチシですよ。都市生活者のリアリティなんて所詮その程度なんじゃないですか。僕なんか「苦悩」これだけですよ、これだけ。気負わずに日常の風景をキラッと光る鋭いかたちに切り出す。


ただ、スーパーに行ったり、仕事に行き、バイトをする暮らしの中にある残酷や空白や地獄や落とし穴・・・そんなものを見せてくれる愛する女性作家、はやくに亡くなられたのが残念。





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