刺繍草紙

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劇団自由派DNA 「祭区」

映像で映し出された海と空がゆっくりと旋回して空が海へ海が空へ転換していくオープニング。


祭を司る長であるジコ様と日陰の存在であるタコ(蛸)との関係性、漁師の親方(ジコ)と海の怪物(タコ)との関係性。その二つのストーリーが絡み合いながら、その相克を描いた作品。ジコ(自己)とタコ(他己)とのあり方、エゴイズムが増幅性を持つものであること、他者が克服すべきものでありまた同時に容認すべきものであること、他者が自分というものを創出させる根拠になること、恋愛にこける自己の喪失などをテーマに世界を描いている。


主題としている世界には現代性があり、春樹などの影響も感じられ親近感の持てる内容ではある。ただ表現として稚拙、いわゆる文学で言うところの行間、言い方を代えれば隠された官能性に乏しく、露骨すぎる。舞台技術も荒くて、一元的で凡庸、特に見所はない。時々見られる俳優の繊細な表現部分と作風のテーマ性のようなところをうまく合致させる突出させる演出法の思い切った転換が必要と感じた。


お世話になった方々の舞台でした。今後とも活躍をお祈りします。?ご招待ありがとうございました。


劇団自由派DNA公式サイト

http://dna.fc2web.com/





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月と六ペンス  ウィリアム・サマセット・モーム

モーム 「月と六ペンス」 月は手の届かないもの、高尚なもの(芸術)、六ペンスは取るに足らないもの、卑俗なものを表している。仏、世紀末の印象派画家、巨匠ポール・ゴーギャンをモデルにした創作小説で主人公の作家はモーム自身を連想させる。

駆け出しであった若い男性作家はとある夫人のサロンで文学や芸術に含蓄の深いストックランド夫人に出会う。彼女の夫であるストリックランド氏は株の仲介人であり、非常に凡庸で面白みのない人物であると婦人は言う。そのストリックランド氏がある日、突然、なんの躊躇もなく妻子を捨てて、ロンドンを消える。作家は彼を説得する役割を担い、パリでホテル暮らしをするストックランド氏を訪れる。ところが彼がそこで聞いた、ストックランド氏が妻子を捨てた理由はなんとも衝撃的なものだった。彼は平凡な日常を生きてきた壮年期にして「(絵を)やらねばならない」と言ったのだ


 物語は大きく三幕に構成されている前半はストリックランド氏がロンドンで平穏に暮らしていた頃、年若い画家を取り巻く環境や芸術、文学一般や人人の暮らし一般に関するややアイロニックな記述。そしてストリックランド氏が周囲に不可解な行動をとってロンドンから出奔するまで。

 中盤はストリックランド氏に住んでいた頃の話。青年作家はパリに住み、ストローブという才能があるとはいいがかたい商業画家の友人と懇意に付き合う。その友人画家は自身の絵は才能がないながら、類稀な鋭い審美眼を持っており、そのストリーブが誰にも認められていないストックランドこそ世紀の天才であると評したのだ。やがてストリーブは自分の妻をストリックランドに取られ、その妻は獣のような律しがたいエネルギーを持つストリックランドを前に不可解な自殺を遂げてしまう。その狂おしい憑依である才能のなせる業なのか、信念と情熱を燃やす悪魔のようなエゴイズムに犠牲になってゆく、凡庸な心弱い(心優しい)人人。

 後半はストリックランド氏の死後、彼の作品が世に稀な評価と価値を得てから、画家の最後の時を過ごしたミクロネシアのタヒチ島で聞き及んだストリックランド氏に関する記述。地の女を妻にし、森の奥地に篭って熱病にかかりながら、太陽の光に鮮やかに浮かび上がる色彩の渦をなんとか手中にしようと、盲目になりながら狂ったように絵筆をとりつづけ、小屋一面に絵を描いた執念の末期生活の描写。


モームは成功した作家であったが、しかし自らを通俗的作家であると皮肉っていたようだ。文学についての記述があり、文学の芸術性を問うている箇所で、文学とは恋愛沙汰などを大仰に取り上げたりして、結局のところつまらないものだと書いている。作家として彼自身の俗性に対する煩悶があり、また自身の表現に至高を求める苦悶、煩悶が彼にこれを書かせたのだと思われる。彼は女の低俗性、凡庸な人生の卑小さなどのについて触れそれは偉大なものに比べて、なんと下らないことであるかを痛烈に書きながら、しかしそういったものに囚われざるをえない凡庸な人間に対する慈しみを決して小さなものとせずに対比させ、それらの葛藤を骨太な慧眼で描いている。



モーム, 行方 昭夫
月と六ペンス


「画家と言わず、音楽家と言わず、すべて芸術家というものはその崇高な、あるいは美しい装飾によって、審美眼を満足させてくれる。またあの性的本能とも会い通じるものがあって一種の原始性というべきものを帯びてくる。いわば同時に彼自身という、より大きな贈り物を我々の眼の前にひろげて見せてくれるのだ」


「僕は言ってるじゃないか、描かないじゃいられないんだと。自分でもどうにもならないのだ。水に落ちた人間は、泳ぎが巧かろうと拙かろうと、そんなこと言っておれるか。なんとかして助からなければ、溺れ死ぬばかりだ」


?「天才、それはこの世で最も驚くべきものだ。しかし持ち主にとっては大きな重荷なのだ。僕らは彼らに対しては寛容でなければいけない、じっと我慢してやらなければいけないのだ」


?「こいつはりっぱだ」と彼が言った。「彼にとっちゃ、絵を描くことは地獄の苦しみだったんだ」


「私たちは幸福だよ。物を計画して、それを成就するということは、君、決して誰にでも許されることではないんだからな。私たちの生活は、単純で、そして天真爛漫だ。野心に悩むこともない。私達の誇りといえば、それはただ自分のした仕事を考えること、それだけだ。悪意も起こらなければ、羨望もない。モン・シェル・ムシュー・・・、世間ではよく労働のことを祝福というねぇ。意味のない言葉だよ、たが、ただ、わたしにはそれは最も切実な意味を持っている。私は幸福な人間だよ」




SOLO フィリップ・デュクフレ

1972年、アルヴェール・ヴィル冬季オリンピックを演出し、現代コンテンポラリーダンス界を牽引する一人物であるフィリップデュクフレのソロ作品。オープニングはスクリーンの下から突き出された彼の足の動き。切り取られた身体、リズミカルなシルエットの伸縮、死角や部位をうまく使いながらビジュアルによる刺激を最大限に工夫する舞台を試みる。

踊るのは久しぶりという彼の体は長いブランクを感じさせず非常にしなやか、大阪弁で自己紹介をしたり、自分の家族の写真をスクリーンに映し出して紹介したり、彼の発想は伸びやかで素朴。ユニークという観点からすべての表現が出発している。ラストのアーティストトークで「お客さんも退屈せず、自分も退屈しないこと」が大切と話していたのも頷ける。


体の極小部分、例えば指先だけをアップしたり、体を何倍ものシルエットに見立てたり、鏡を並べたような効果、光や影の点滅と交錯、据え付けられたカメラのひきとアップ、拡大したり小さくなったりするスクリーン、緻密な映像作品と訓練された身体の的確な噛み合わせ、また違和感。拡大と縮小の効果を最大限に工夫しながら、ユーモアに溢れた万華的世界を展開。


ビジュアル効果という意味で非常に面白かったが、それ以上のものは見られなかった。一人であることの限界も感じられた。全体の構成バランスが悪く何度も睡魔が襲ったのが残念。奇抜な発想を客観的に捉えられる演出家としての仕事の方がよいのでは・・・と感じる。



http://www.cie-dca.com/

http://www.umegei.com/s2006/d-solo.html



ムーン・パレス

60年後半、人間が始めて月に降り立ち、メッツが躍進を遂げるアメリカNYを舞台とする。唯一の理解者であったクラリネット奏者ビクター叔父を失ったフォッグ(マーコ)はその強烈な喪失に耐えるために、自らを酷使しはじめた。ビクターの残した蔵書千冊あまりの詰まったダンボールから片端から一冊一冊とりあげ読みふける。仕送りもない生活でアルバイトもせず、彼は飢餓の一歩直前まで本を読み、そして読んだ本を売って生きた。本は読み終わり、跡に何も残さず、アパートを追い出され、セントラルパークで寝泊りし、死の間際まで行く。友人と中国人であるキティという女の子と助けられ九死に一生を得る。その後、フォッグは車椅子に乗ったエフィングという一風変わった盲目の男のもとで朗読をするという仕事をすることになる。エフィングが死期を予感した時、彼は自分の不思議な経験、以前彼は将来を嘱望された画家であったこと、フロンティア時代に大陸を横断するたびををしたこと、半身不随になった過程、それらを一つの著書にする仕事をフォッグに与える。そして最後にフォッグを呼んで、自分の遺産を息子に渡してほしいと頼む。彼はエフィングの息子である、バーバーに会いに行き、彼と接するその過程の中で、実はその息子はフォッグの父親であったのだという、親子三代に渡る自らの不思議なルーツを見出す・・・。彼は途方にくれながらユタからカルフォルニアまでの旅をし、カルフォルニアの海岸に立ち竦み空に浮かぶ黄色い月を見る。



青春はあまりにも無為な徒労に還元されるものでしかないこと、それは無謀な酷使を強いられ、消耗的であるもの。不器用で、誰かを傷つける種類のもの。孤独、喜びと、苦しみと、憤りと、そんな感情の膨大な消費場所、あちこちに頭をぶつけてよろめきながら、それでもナイーブな心に希求だけが月のごとく輝く。

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太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である

ポール・オースター, 柴田 元幸, Paul Auster
ムーン・パレス

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